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【NINTENDO】相关会社资料总揽(日文版)

特别注意:所有资料最终更新仅至2003年9月!
由于文本量较大,为在复制的过程中可能出现的一些乱码等错误深表歉意!


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アルゴノート ゲームス
[Argonaut Games PLC]


 英国のソフトハウス。スーパーファミコンで3D描画機能を実現したスーパーFXチップの開発元。
 まだ10代だったJez Sanによって設立されたArgonaut Softwareは、1984年にはコモドール64向けに第一作目となる『Skyline Attack』を開発した。1986年にはコモドール64用の『StarGlider』が初めてのヒット作となった。このタイトルの成功でArgonautは拡張され、また3Dコンピューターゲームが広く知られるようになったる。 続いてリリースした『StarGlider II』も好評で、Argonautは3Dゲームの第一人者として認知されるようになった。
 1990年頃にDylan Cuthbertが開発したゲームボーイ用の3Dエンジンが任天堂に認められ、1992年に『X』として発売された(日本のみ)。合わせてスーパーファミコン用の3Dグラフィックスアクセラレーターの開発を任天堂に打診し、スーパーFXチップの設計をArgonaut社に任されることになった。スーパーFXチップの基礎的なコンセプトのほとんどは、Jez Sanのアイデアによるものだという。そして、Dylan Cuthbert、Giles Goddard、Krister Wombellの3名のスタッフを、当時3Dゲームの開発経験がなかった任天堂に派遣することになった。 また、スーパーFXチップの設計者Pete WarnesとCarl Grahamが開発をアシスト。『スターフォックス』と『ワイルドトラックス』を共同開発し、そのうち『スターフォックス』は世界で400万本以上を売り上げる大ヒットとなった。
 1999年には、Argonaut TechnologiesとArgonaut Softwareの2社に分社化。翌2000年にはArgonaut Games PLCとしてロンドン証券取引所に株式上場した。
 最近は英国内のデベロッパーの買収に積極的で、現在5つの開発スタジオ抱えている。その開発スタジオっを紹介しよう。Argonaut Software Sheffieldは、Michael PowellとGlyn Williamsによって1994年にSheffieldの地に形成された。SFゲームの開発を得意としているらしい。Sheffieldにはもうひとつ、Particle Systemsという2002年に買収した開発スタジオがある。Morpheme Ltdは1999年に設立、2002年にArgonaut Games PLCに買収された現在は携帯端末用のコンテンツを開発しているという。LTStudios Ltdは2001年に買収。経験豊富なメンバーを有するゲームデベロッパー。2003年10月に買収されたJust Add Monstersは、SCEを退職した3人が創業者。8つのプラットフォームで15のゲームタイトルをリリースし18年以上この業界で活躍した経験を持つという。
 『Croc 2 : Kingdom Of The Gobbo's』やPS1でリリースした『ハリー?ポッター』2作が100本を突破するなど、近年もヒット作を輩出。現在はマルチプラットフォームタイトル『I-Ninja』などを開発中。


■会社情報
社名 Argonaut Games PLC
役員 Jez San - Chief Executive
Joss Ellis - Chief Operating Officer
John Crilly - Financial Director
Julian Paul - Non-Executive Chairman
設立年月日 1980年
所在地 英国
資本金  
従業員数 約300人
開発対応機種 PS2,GC,GBA,XB
ホームページ http://www.argonaut.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日  
X GB 92.05.29  
スターフォックス SFC 93.02.21  
ワイルドトラックス SFC 94.06.04  
ヴォルテックス SFC 94.12.09  
スターフォックス2 SFC 発売中止  
BUCK BUMBLE N64 98.12.18  
   
   

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ファクターファイブ
[FACTOR 5]


 1987年ドイツで設立。社名は創立メンバーの数"5"にちなんで。
 LucasArtsと提携し、1996年5月には現在のカリフォルニア州に社屋を構えるようになる。
 NINTENDO64用の開発ツールを開発。任天堂と深い関わりを持つようになり、ゲームキューブの初期設計に関わっている。
 ゲームでは『スターウォーズ』シリーズをLucasArtsと共同で開発。『STAR WARS:ROGUE SQUADRON II」では高い技術力を証明した。

■会社情報
社名 FACTOR 5
代表者  
設立年月日 1987年
所在地 米国カリフォルニア州サンラファエル
資本金  
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種 GC
ホームページ http://www.factor5.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
スターウォーズ 出撃!ローグ中隊 N64 99.08.27  
Star Wars Episode 1: Battle for Naboo N64 日本未発売  
Star Wars: Rogue Squadron II(発売元:EAスクウェア) GC 02.03.22



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レフトフィールドプロダクション
[Left Field Productions,Inc.]


 米国にある任天堂の元セカンドパーティ。
 1998年4月、スポーツゲームの開発に定評があったLeft Field Productions社の株式の一部を任天堂が買収。任天堂のセカンドパーティとなる。 その後、NINTENDO64向けに『NBA Courtside』シリーズ、『エキサイトバイク64』を開発。
 ゲームキューブ向けに『テンエイティ2』を任天堂のGiles Goddard氏と共に開発していたようだが、開発は中止されてしまった。
 2002年、任天堂はLeft Field Productions社の保有株式25%をすべて売却した。売却は自社株を買い戻す形で行われた。

■会社情報
社名 Left Field Productions,Inc.
代表者 Mike Lamb, Jeff Godfrey and John Brandwood
設立年月日 1994年
所在地 米国
資本金 1,614,000US$
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.left.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
NBA Courtside N64 国内未発売  
NBA Courtside 2 N64 国内未発売  
エキサイトバイク64 N64 00.6.21  
NBAコートサイド2002 GC 02.3.29


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ニンテンドー?オブ?アメリカ
[Nintendo of America Inc.]



米国市場で任天堂の製品を販売している任天堂の100%子会社。任天堂の売上の5割以上を占める。

1.Donkey Kong
 義父の山内溥任天堂社長の頼みを受けた荒川實氏によって1980年5月、Nintendo of Americaは設立された。最初のオフィスはニューヨークの玩具問屋街のビルの一室に構えた。夫婦ふたりだけのスタートだったが、数ヵ月後に日本から太田茂氏(後のNOE社長)らが出向、アメリカ人の従業員も数人雇った。最初に手がけた仕事は『レーダースコープ』というアーケードゲームをアメリカで販売することだった。ロケーションテストの結果、好感触を得て、京都の任天堂本社(NCL)に3000台もの『レーダースコープ』を大量発注。しかし、船便がニューヨークに着くまで4ヶ月もかかり、ようやく荷が届いた時には『レーダースコープ』の人気は泡の如く消え去ってしまい、パニック状態に陥った。荒川氏は価格を下げ必死の販売攻勢をかけたが、2000台以上も売れ残りが出た。そこで、NCLに新しいビデオゲームの開発を依頼する。開発を任されたのは当時ビデオゲーム開発経験の無い新人の宮本茂氏だった。
 そうして宮本氏が手がけた新しいビデオゲーム『ドンキーコング』が完成しNOAに届けられた。アメリカ人の従業員は頭を抱えて、ある者はバーへ行き酒を飲んだくれ、またある者は次の職を探しに出て行った。アメリカ人の感覚には『ドンキーコング』というタイトルが奇妙に映ったばかりでなく、当時の主流だったシューティングゲームではなかったことが、評判の悪い原因だったようだ。荒川氏も売れるのか心配だったが、試しに近くのアーケードに『ドンキーコング』をテストとして設置してみた。すると、大当たりで一週間経ってもコイン収入が増えるばかりで、他にテストの場所を増やしても、結果は同じだった。これは凄い商品だということで、NOA社員が夜通し作業して、2000台全部のROMを『ドンキーコング』に入れ替えた。そうした作業をしているあるとき、NOAが借りている倉庫のオーナーが怒鳴り込んできた。ビデオゲームの主人公にそっくりな彼の名前はMario Segali。『ドンキーコング』の主人公はマリオで行こうと決まった。
 『ドンキーコング』はさらにNCLに追加発注して、最終的には6万台を売り上げる大ヒットとなった。NOAは創立2年目にして1億ドルの売上を記録した。そのころNOAでは、会社をニューヨークからシアトルに移した。シアトルなら大阪から船で9日で着くし、不動産も入手しやすい。ハイテク企業が多く、質の高い労働力が得やすい。街の規模も約200万人と手頃であった。ドンキーコングの収益で、レドモンドの農地を27エーカー(後年さらに33エーカー)を買収した。1982年7月の出来事で、支払いは全てキャッシュであった。
 1981年、海賊版の出現に頭を悩まされていたNOAは、『ドンキーコング』という名称を商標登録し、ゲームの著作権を法的に確立する必要があったため、弁護士が必要で、荒川氏はある友人からHoward Lincolnという弁護士を紹介された。荒川氏とLincoln氏は相談した結果、全米中に出回っていた『ドンキーコング』の不法コピーを駆逐するべく、FBIやアメリカ陸軍にも依頼して、海賊版の保有者、配給業者、製造者を摘発し裁判に訴えていった。その結果、任天堂は著作権を侵害する海賊版を糾弾し徹底的に追及する会社だという評価を勝ち取ったのである。
 ところが、1982年4月のある日、MCAユニバーサルが『ドンキーコング』が映画『キングコング』の版権を侵害しているとして訴えてきた。10ヶ月にわたり裁判に備えて法務スタッフで準備を行った。裁判に備えて準備が進められている中で、Lincoln氏を仕事の上でも友人としても尊敬していた荒川氏は、NOAに入らないかと打診した。Lincoln氏は顧問弁護士としてではなく、あらゆる面でビジネスに関わりたいと答え、法務担当副社長としてNOA入社し、ナンバー2として荒川と一緒に社業を切り盛りするようになった。辣腕弁護士、John Kirby氏を招いて過去の訴訟を精査していると、MCAユニバーサルがキングコングの版権を所有しておらず、一般大衆の共有財産になっている事がわかった。裁判所の判決もMCAユニバーサルは著作権を所有しておらず、従って任天堂は同社の権利を侵害していないと結論した。この勝利によってNOAは逆に180万ドルの損害賠償金を得ることが出来た。


2.Nintendo Entertainment System
 日本でファミリーコンピュータが大ブームとなっていた1985年、NOAはファミコンの米国展開を決意する。1985年1月に開かれたラスベガスのショーで、ファミコンを教育機器に改造し"AB-system"と名付けて出品したが、評判は芳しくなかった。アタリショックの後遺症が色濃く残っていたからだ。そこで山内氏のアドバイスで、横井軍平氏が開発したファミコンロボットをくっつけて、6月にシカゴで開かれたショーに出品したところ好評、ある程度の手応えを得て、その年の10月、ファミコンを"NES"と名付け、ニューヨークでテスト販売開始することになった。山内氏からは5000万ドルの予算をNOAに与えられた。
 30人のアメリカ人従業員が、シアトルからニューヨークへの4ヶ月間という長期の単身赴任を引き受けた。デパートや玩具店?電気店をしらみつぶしに訪問して回った。リスクを一切背負わさないという条件をつけるしかなかった。小売店に製品を無料で持ち込み、ウィンドーディスプレイまで自社で行うと宣言した。 NOAの宣伝担当マネージャー、Gail Tilden氏はNESに関わる宣伝活動の基本原則を徹底させた。全ては任天堂のイメージがAtari社のそれとダブらないようにデザインされていた。最初の1年間で販売台数は100万台。テスト地域を広げ、2年目になると販売台数は300万台に伸びた。
 1987年にNESのテスト販売が終了し、荒川氏は友人のPeter Main氏をマーケティング担当副社長のポストを用意して任天堂に入社させた。Main氏がまず手をつけたのは小売業界との関係改善だった。さらにウォール街にも接触して、主要なアナリストと交流し、任天堂を売り込んでいった。トップ?アナリスト達が任天堂に関心を寄せているというニュースは、これまでアメリカでも望んでも得られなかった信頼感を同社に付与した。
 1988年にはNESが700万台、ゲームカートリッジが3300万本も売れた。1989年になるとアメリカの家庭4軒のうち1軒がファミコンを所有していた。1990年には全家庭の3分の1、3000万世帯を超えた。アタリショックの後遺症の残る米国でNESが成功した理由は、経営者としての荒川氏の理念によるところが大きい。山内氏の強力な支援もあって、長期的な視野に立った事業展開を可能にした。荒川氏とMain氏が指導した多角的なマーケティング戦略は綿密に計画され、一分の狂いも泣く実施された。北米市場でNESは最終的に3400万台売り切った。
 そうしてNESの販売が増えるにつれ、NOAは消費者向けのサービスも開始するようになった。1986年1月から、一台6回線の電話を数台揃えてサービスを開始。直ぐにあまりの問い合わせの多さに対応できなくなり、1987年、4万ドルを投じて電子交換機を導入。1年も経たないうちに電話サービス係が500人に増え、300万ドルの新型電話システムで毎週15万本の電話に応答することになった。電話の能力には限界があるし800番サービスは経費がかさみすぎるので料金負担を打ち切り、1990年からはゲームカウンセラーへの電話は有料になった。子ども相手の電話は3分で切るように指示した。そして7分がすぎたら、優しく宥めて電話を切ることにした。ゲームカウンセラーはユーザーの様々な相談に応じることによって、ゲームファンとNOAの結びつきを深めることで、子どもたちは任天堂に対する愛着が増した。NOAも客の心をより深くつかむことができ、マーケットリサーチに役立てられた。
 1988年初頭までに、任天堂のファンクラブの会員数は100万人を超え、荒川氏はファンクラブ向けのゲーム情報誌の発行を決断。編集長には、才能を買って、出産後間もないGail Tildenが任命された。1989年1月、彼女は日本の出版社と協力して編集と制作に当たり、ゲーム情報誌『NINTENDO POWER』の第一号を完成させ、500万人のファンクラブのメンバー全員に発送した。制作費の大半は購読料金(年間12冊で15ドル)でまかなうことができた。見本となった第一号を見て、150万人が15ドルの予定購読料を払い込んだ。パワー誌は発行初年度の終わりには、子供向けの雑誌としてアメリカ最大の発行部数を記録するに至った。やがて年間12冊では内部情報に対する飽くなき需要が満たせなくなり、季刊のニンテンドー?プレイヤーズガイドが追加発行されることになった。


3.Atari
 NOAの役割はゲームの販売と消費者へのサービスだけではなかった。粗製濫造によって起こったアタリ?ショックの轍は踏むまいと、Don James、Howard Philips、太田茂の3人からなる独自の評価チームを作った。評価の低いゲームは、サードパーティに改良を要求するか、開発中止を宣告することもあった。
 それでなくとも、サードパーティの不満は募っていった。NOAのとのライセンス契約によって、様々な制限が付き纏った。なかでも最も不満になっていたのは、自社でNES用カートリッジの生産を行えない点だった。1988年にNESは米国市場を席捲し、徹底した在庫管理で品不足を演出。市場をタイトにするというのはマーケティングの鉄則だが、翌1989年はROMの供給不足で、カートリッジの品不足が頂点に達した。このためホリデーシーズンに十分な数のカートリッジがNOAから各サードパーティに納入されず、機会損失が発生。NOAはライセンス契約と徹底した市場統制を盾に、サードパーティの不満を黙殺していった。しかし、これに頑としてたてつく者が現れた。
 かつてアタリ?ショックを巻き起こしたAtari Games社は新会社Tengenを設立し、NOAとライセンス契約締結した。Atari Games社は「任天堂の思い上がりを叩いてやる」と決意、カートリッジの自社生産を目指し、NESに組み込まれたセキュリティチップの逆設計を試みるが失敗。そこで、コンピュータコードが登録されているコピーライトオフィスに、訴訟の対象になったいることを示す宣誓供述書を使って入り込み、セキュリティチップのコードを入手した。本物のコードを複製した共鳴チップと作り、それを元に自社版のチップ"rabbit"を作った。1988年"rabbit"を組み込んだカートリッジの生産を開始。12月12日、Atari Games社は、サンフランシスコ連邦地裁に任天堂を告訴した。訴状の骨子は、任天堂は独占的かつ排他的な商行為によって潜在的競争相手を支配し、彼らの犠牲において独り繁栄している、ということであった。独占禁止法違反で告訴し、1億ドルの損害賠償を求めた。
 NOAはほとんど間髪置かずに二件の抱き合わせ訴訟をAtari Games社に対して起こした。ひとつはNOAを不当に誘導してライセンス契約を結んだこと、もうひとつは不法に製造したゲームカートリッジを販売したことである。
 サンフランシスコ連邦地裁で行われたAtari Games/Tengenとの裁判は、予審の法廷でAtari Games社がコピーライトオフィスで入手した問題のコードは任天堂の閉め出しチップを逆設計した同社の能力とは関係ないと主張した。連邦地裁はこの主張を認めず、1991年3月、Atari Games社の行為を窃盗だと決め付けた。裁判所は「1988年初めにAtariがコードを入手した目的は法的なものというより、商的なものであった」との見解を示した。Atariのソースコードと任天堂のコードを比較検討して、そのような結論を下したのである。違っていたのは、Atari Games社のコード"rabbit"に、チップの機能させるに必要な情報量をはるかに上回る情報が詰め込まれていた点だけだった。同社が本当に独力で創ったものなら、相違点が他にもいろいろあって然るべきだというわけである。
 1989年初め、Atari Games社はNOAの対抗訴訟に対して対抗訴訟で応じた。同社特有の特許権を侵したとしてNOAを告訴したのだ。Atari Games社との争いは、任天堂にとって最も重大な問題だった。もしも敗訴すれば、それが前例となって、多大の出費を強いられるからだ。NES用ソフトウェアの支配権がその訴訟にかかっていたのだ。
 NOA首脳部は直接小売業者に手をまわしてTengenを締め付けることを決定し、Tengenのゲームを取り扱った業者は容赦なく告訴すると警告する書簡を送り付けた。法廷での審理は捗らず、任天堂のビジネスはいまや「ビデオゲームと訴訟」になったと嘆いた従業員もいた。NOAの訴訟関係の出費(1990年度で2000万ドル)は、額としてはかなりのものだが、全体の売上高からいうと取るに足りない。Atari Games社はNOAがらみの訴訟で出費がかさみ、財務状況が悪化していた。このため法廷で争いながら、裁判長に対して、ゲームの販売差し止めを命じた仮処分の撤回を要請した。資金繰りが悪化して二進も三進も行かなくなったからだ。裁判長も同社の窮状を見かねて、1991年4月11日、控訴審の結果がどうなるかわからないが、とりあえずゲームの販売を許可する決定を下した。しかし結局Tengenは1992年9月、控訴審でも敗れ、NES用カートリッジを全て回収する羽目になるのだが。
 一方で1989年、Atari Games社の幹部はワシントンに行き、下院の反トラスト小委員会の委員長でオハイオ州選出の民主党議員デニス?エッカートに訴えて理解を得た。彼は任天堂のセキュリティチップやソフト開発業者とのライセンス契約が反トラスト法に違反していると弾劾した。さらに、ハードウェア?メーカーがソフト業者がその社のマシーン向けにソフトを制作するのを制限するのは違法だと断じた。さらにまたハードウェアとそれを機能させるのに必要なソフトウェアを抱き合わせにする任天堂の商慣行を非難し、小売業者や競合他社に対して圧倒的に強い立場にある強者の立場を利用して、前年のクリスマス前の買い物シーズンに価格を20%から30%も吊り上げたのは不当だと主張した。NOAの独占によって消費者は余計に金を払わせられたというわけである。
 Howard Lincolnがこの議会による調査のことを耳にしたとき、それはもうほとんど終っていた。NOAにも陳述の機会を与えてもらえるよう要請し聴聞会の日程が決まったが、二度にわたってキャンセルされた。LincolnはNOAが証言を拒否されていると公に非難したが、それに応えて、エッカートは聴聞会の開催を12月4日に設定した。ところがそれもまたキャンセルとなり、数日後、小委員会は聴聞会を開くことなく報告書を発表するつもりで、その翌日、記者会見が予定されていると伝えてきた。Lincolnは直接話し合えるように取り計らってもらった。しかし、ようやく連絡がついたエッカートは調査はもう終ったと冷ややかに繰り返すだけ。全く歩み寄ろうとしないので、Lincolnは激しく噛み付いた。記者会見が予定されている日は、12月7日だった。
 記者会見は予定通り12月7日、Pearl harbor dayに開かれた。クリスマスまでにはまだ間があるし、議会は休会中ということで、記者たちは暇つぶしをかねてエッカートの記者会見に顔をそろえた。席上、エッカートは司法省に任天堂問題の調査を開始するように勧告すると発表した。Lincolnは記者会見の模様を録音したテープを聞いて激怒した。議会で聴聞会が続いている間に、司法省は任天堂問題の扱いを連邦取引委員会(FTC)に一任するという決定を下した。
 「任天堂は悪いに違いない、あれほど早く成長できるのは癌だけだ、といった見方が罷り通っていた」とPeter Main氏は語る。「任天堂非難が高まったあの時期、我々は批判に対応する準備を怠り、半鐘を用意していなかった。手と目の連携云々の議論以降、我々はよろめきどおしで、傍目には心ならずも愚直に映ってしまった」 アメリカで成功した日本企業に反撃する際、刑事訴追を武器にするのはどうか? 「我々が大きくなるまでは、誰も文句を言わなかった」と荒川氏はいう。「任天堂がアメリカの企業だったら、だれも文句をつけなかったはずだ」と語るのはMain氏だ。Lincolnも同じように続ける。「ワシントンではジャパン?バッシングが盛んに行われている。任天堂にはあまりにも味方がいない。うちが日本企業だということが最大の理由だ。大きなマーケットシェアを持つ有名企業だから、ありとあらゆる中傷に晒される。うちが大きくてタフな会社だという評判は承知しているし、ワシントンの反日感情にも理解できる点がないではない。貿易問題は確かに存在する。日本市場の障壁には多くのアメリカ人と同じように反対する。しかし、それとこれとは別の問題だ。障壁を作っているのはうちじゃない」
 FTCによる調査に対応して、NOAはライセンス契約の制限条件を緩和する決定を下した。1991年4月10日、ワシントンでFTCの記者会見が行われ、任天堂は小売業者の動向を常に監視し各業者に販売価格を遵守するよう圧力をかけたと、非難した。ただ、任天堂が払うことになったペナルティは奇妙なものだった。1988年6月1日から1990年12月31日までの間にNESを購入したものは任天堂製品の5%割引券をもらえるというもので、これによって任天堂は最低でも、500万ドル、最高に見積もると2500万ドル相当のクーポンを買い戻さなければならない。つまるところ任天堂は、Peter Mainが夢見たような商機を提供されることになった。
 こうした市場での成功にかかわらず、任天堂はAtari Games/Tengenによる訴訟のために依然として不安定な立場にあった。John Kirbyは見事な弁護を展開していたが、陪審の判断は予測不可能だった。法廷のムードは任天堂の敗訴を予感させるほど厳しかった。1992年5月、陪審が大方の予想を裏切って任天堂の無罪を告げたとき、呆然としたどよめきが廷内を満たした。

4.Tetris
 ゲームボーイ向けに試作させた『テトリス』荒川はすっかり魅せられてしまい、『テトリス』ゲーム化の権利獲得を画策する。Atari Games/Tengenが取得していると見られたテトリスの権利について調べたが、はっきりしなかった。調査してみるとAtari Games/Tengenは家庭用ゲーム機向けのゲーム化の権利は取得していないことがわかった。
 Atari Games/Tengenに悟られぬように、荒川とLincolnはロシアへと飛んだ。『テトリス』の権利を管理していたELROG社との交渉の末、権利の獲得に成功。帰国後、NOAはAtari Games/Tengen社にNES用『テトリス』の販売を中止するよう通告。慌てたAtari Games/Tengenは1989年4月14日、連邦地裁に著作権侵害で任天堂およびNOAを提訴した。しかし翌月には全く同様の理由でNOAがTengenを逆提訴。11月、連邦地裁は任天堂の訴えを認めた。
 荒川とLincolnにとっては、あまりに甘美な成果がもたらされていた。自分たちの背中を刺した友人だと見なしていた連中から、その数千万ドルの収益を奪い取るという快感である。Lincolnも認めるように、報復が主たる目的だった。Lincolnは当時の心境についてこういう。「見事に連中の鼻をあかして痛快だった。こっちはこの契約でたっぷり稼がしてもらい、逆に連中はほぞを噛むというわけだ」 テトリスのおかげでゲームボーイが数千万も売れた。テトリス中毒のある上院議員は冗談に、あのゲームはアメリカ人を夢中にさせて他のことを忘れさせようとするソビエトの陰謀であるといったものである。


5.Rival
 大成功したNESの後継機"SUPER NES"は1991年9月、満を持して発売された。しかし、思わぬライバルが出現し、船出から順風満帆とはいかない。SEGA OF AMERICAが先行して発売したGENESISの勢いが止まらなかったからだ。1991年のホリデーシーズンはSNESとGENESISが互角の売上で、GENESISがSNESの二倍以上売れた小売店も少なくなかった。GENESISは『ソニック?ザ?ヘッジホッグ』をバンドルし、反任天堂のソフトハウスからのタイトルが増え、さらに価格面で優位に立っていた。SNESも『スーパーマリオワールド』をバンドルしていたが価格面で50ドル程度の開きがあった。NOAは値下げすると、SOAも値下げで対抗し、度重なる値下げは両者の収益力を著しく悪化させる結果となった。
 1994年8月、"ULTRA-64"用のソフト『KILLER INSTINCT』の画面写真が世界で初めて、NOAのオフィシャルマガジン『NINTENDO POWER』誌上に掲載された。"ULTRA-64"の開発にはNOAが深く関わるようになっていた。同年9月22日に開催されたAMOA EXPOに『KILLER INSTINCT』『CRUISIN'USA』を出展。さらに、翌年1月のCESにて、任天堂を含む十数社による"DREAM TEAM"なる団体を結成したと発表。そして"ULTRA-64"は11月24日に開かれた任天堂スペースワールドで"NINTENDO64"として公開された。米国でNINTENDO64は1996年9月に発売され、翌年3月末時点で342万台を出荷し好調な滑り出しを見せたが、SNESのときと同じく、先行されたPLAYSTATIONに販売台数で大きく水を開けられた。しかし、N64は300万本以上売れたソフトが10タイトル近くも生まれ、値下げ競争に明け暮れたSNESよりも収益性は大きく改善された。


6.POKeMON
 荒川氏が初めて『ポケットモンスター』を手にしたのは1996年11月、任天堂スペースワールドで来日したときだった。それまでNOAはポケモンを全く評価していなかったが、日本でポケモンが大ヒットし、NOAでも扱わざるを得ない状況になってきていた。しかし、アメリカに持ち帰って社員にテストさせてみたが、評判は芳しくなかった。そもそも、アメリカ人にRPGは受けが悪かったし、デザイン面でもかわいすぎるところも受け入れ難かった。
 そうするうちに、日本でポケモン人気が加速度的に盛り上がり、ますますNOAでも取り組まざるを得なくなった。そこで荒川氏は直属のプロジェクトチームを作り、リーダーにGail Tilden、その補佐役にマイク福田を起用。5000万ドル以上ともいわれる予算を組んだ。
 ゲームには大きな不利があると感じていた荒川氏は、1997年11月の任天堂スペースワールドの際、アメリカで成功するためにはゲームの他に、アニメ、カードゲーム、映画、グッズ全てをそっくりアメリカに持ってくることが必要だと、石原恒和氏と久保雅一氏に提案した。そして年が明けて1998年初め、ポケモンに関する全ての権利をNOAが取得する。その結果、NOAが日本以外でのポケモンに関する一切の権利を取り仕切り、それらを自由に使用してプロモーション戦略を練ることが可能になった。
 1998年5月のE3でHoward Lincolnは「NOAは今年、ポケモンをアメリカで展開する。ポケモンは、ゲームソフトだけでなく、キャラクターとしても、かつてない成功を収める事になるだろう」と宣言した。そのときは誰もが今のような成功を想像していなかったろう。むしろ失敗すると見る向きが多かったはずだ。
 ゲームの評価は低かったが、アニメーションの評判はアメリカでも良く、ゲームの販売のプロモーションに使うことになった。1998年9月7日アメリカでポケモンアニメの放送が開始され、わずか5ヵ月後の1999年2月13日には全米ネットワークでの放送が実現した。そして世界中のテレビ局が次々とポケモンアニメの放映していった。
 ゲームソフトの方も、アニメ放送開始後の1998年9月28日、『POKeMON BLUE/RED』が29ドル95セントで発売され、発売後1ヶ月で100万本と突破。カードゲームは1999年1月9日に発売、カードゲームも飛ぶように売れた。11月10日には映画『POKeMON The First Movie』が封切られ、興行収入は北米だけで8500万ドルを記録した。
 その後ポケモンは世界に波及し、ゲームソフトは全世界で7500万本(日本2300万本、海外5200万本)を出荷。カードゲームは全世界で130億枚を出荷に達した。ポケモンは、かつてない成功をNOAにもたらしたのだった。

7.the Nintendo difference
 2001年アメリカでGAMECUBEとGAMEBOY ADVANCEを展開するNOAは、E3で"the Nintendo difference"と題したプレスカンファレンスを開催。GAMECUBE用ソフト『SUPER SMASH BROS. MELEE』『PIKMIN』などを発表、11月5日にハードを発売すると発表した。実際には初回に十分な出荷量を確保するため、11月18日に延期された。先行したPLAYSTATION2にハードウェアの出荷台数で大きく水を開けられ、同時期に発売のXboxとデッドヒートが続いている。
 その一方でNOAは確実に変わりつつある。NCLで山内社長が勇退したように、NOAでも2000年にHoward Lincoln氏が会長職を退任、義父に合わせるかのように社長の荒川實氏も2002年1月に、長らくマーケティング担当副社長を務めたPeter Main氏も同じく2002年1月に退任した。後任には社長に君島達己氏が、マーケティング担当副社長にPeter MacDougall氏が就任し、NOAの舵取りを任されることになった。さらに、9月にはRare LimitedやLeft Field Productionsの株式を手放し、セカンドパーティの選別を進めている。
 苦戦していると言われるNOAだが、日本のサードパーティを集め、連動タイトルが本格化するこれからが勝負だろう。新経営陣の舵取りに期待したい。


■会社情報 社名 Nintendo of America Inc.
代表者 代表取締役社長 君島達己
設立年月日 1980年5月
所在地 米国ワシントン州レドモンド
資本金 110,000,000US$
売上高  
経常利益  
従業員数  
ホームページ http://www.nintendo.com/



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ニンテンドー?ソフトウェア?テクノロジー
[Nintendo Software Technology Corporation]



 NOAと同じ敷地内にある、任天堂の100%開発子会社。
 1998年海外初の任天堂の開発会社が設立される。これは荒川實氏の独創的な考えによるもので、Scott Tsumura氏とClaude Comair氏を夕食に招き、その席で二人に対し提案したことによって実現した。
 70-80名の開発スタッフを抱え、複数の開発ラインを備えている。任天堂情報開発本部から山城重喜氏が出向し、京都との連絡も万全。宮本茂氏自身も、電話でアドバイスを与え、時にはNSTに足を運ぶこともある。Claude Comairは宮本氏をNSTにとって"ultimate director"だと評している。
 NINTENDO64向けには2タイトルを開発。『Ridge Racer 64』はナムコのライセンスを得ての開発だが、今後は他社タイトルを開発する予定はないようだ。『Pokemon Pazzle League』は、『パネポン64』として日本でも発売される予定だったが、京都の目の届かないところで(?)ポケモンアニメのキャラクターを使ってしまったため、版権の関係上、日本で発売できなくなってしまった(ポケモンの権利関係の詳細は『ポケモンストーリー』を?むと良い)。
 『ウェーブレース』の続編をNSTが開発を担当することになったのは、天候変化と水を扱うゲームに関して多くのアイデアを持っていて、『ウェーブレース』を開発するのに適正だと判断されたためらしい。『ウェーブレース ブルーストーム』はゲームキューブのローンチタイトルとして発売され、今後の任天堂のラインナップを構成する重要な開発会社になっていくことだろう。
 現在は『1080°シルバーストーム』を開発中。


■会社情報
社名 Nintendo Software Technology Corporation
代表者 Scott Tsumura[President]
設立年月日 1998年
所在地 米国ワシントン州レドモンド
資本金 20,000US$
売上高  
経常利益  
従業員数 70-80名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
Ridge Racer 64 N64 日本未発売  
Pokemon Puzzle League N64 日本未発売  
Crystalis GBC 日本未発売  
Bionic Commando: Elite Forces GBC 日本未発売  
ウェーブレース ブルーストーム GC 01.09.14  
パネルでポン(NINTENDOパズルコレクション) GC 03.02.07  
1080°シルバーストーム GC 03  
マリオ&ドンキーコング GBA



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レア リミテッド
[Rare Limited]



 英国のソフトハウス。任天堂のセカンドパーティとして活動し、任天堂が持ち株会社Rare Acquisitionを通じて49%の株式を保有していた。
 一般には『スーパードンキーコング』の開発元して知られる。他にも『ディディーコングレーシング』や『バンジョーとカズーイの大冒険』など、ファミリー向けのソフトも開発しているが、Rareの代表作として外してはいけないのが1997年に発売された『ゴールデンアイ007』だろう。日本市場でのセールスは奮わなかったが(それでもリピートは何度もかかっていたようだ)、全世界で800万本以上の出荷を達成し、多数のレアマニアを生み出した。その続編『パーフェクトダーク』や『ブラストドーザー』なども、独特の雰囲気とゲーム性を備えており、かつ任天堂らしい徹底した作りこみがRereの真骨頂であり、ライトユーザーにもゲーマーにも高く評価される所以であろう。
 しかし、そんな高い評価を得ていたRareの開発力を、任天堂はあっさりと手放してしまった。2001年のE3では、プレスカンファレンスで流れたビデオにChris Stamper氏が登場し、また『スターフォックスアドベンチャー』や『Kameo』をプレイアブル出展、『Donkey Kong Racing』『Perfect Dark』を映像出展するなど、依然として任天堂と近しい関係にあることを伺わせていたのだが…。
 2001年のE3の後、両者の関係は急速に冷却化したようだった。その年の年末に、Rareから送られてきたクリスマスカードにPS2とXboxが描かれていた。この出来事によって、「Rareはマルチプラットフォーム化するのでは」「任天堂のセカンドパーティから外れた」などという憶測がインターネットを通じて世界中を駆け巡った。2002年のE3で何か発表されるのでは、と憶測されていたが、任天堂はこの話を否定し、結局は何も起こらなかった。いや、何もなかったというよりは、何かがおかしかった。Rareは『スターフォックスアドベンチャー』を出展したのみで、他には何も出展しなかった。Rareの開発部門には200人以上いると言われていたはずだったのだが。「一体Donkey Kongはどこに行ったんだ? それよりもKameoは昨年プレイアブル出展されていたというのに…」レアマニアの嘆きは深かった。この出来事によって、憶測は確信を帯びることになり、噂が噂を呼ぶことになってしまった。任天堂とRareが否定するたびにそれは加速した。
 そして2002年9月、任天堂はRare Acquisitionを通じて保有しているRare社のグループ会社3社の株式をMicrosoft社に3億7千500万ドルで売却したと正式に発表した。Rareが開発したゲームのうち、『ドンキーコング』『スターフォックス』などは、元々任天堂の知的財産であるため引き続き任天堂が権利を保有(当たり前だが)、『バンジョーとカズーイ』『スターツインズ』『コンカー』『パーフェクトダーク』といったRareの内作ソフトは、Rare社が権利を保有することになった。今後、Rareのゲームは『パーフェクトダーク』や『バンジョーとカズーイ』を含め、Xbox向けに発売されることになるだろう。
 Rareの株式を売却した理由について、NOAマーケティング担当上級副社長Peter MacDougall氏は「任天堂はレア社との独占的関係を維持しようと思えば出来る立場にあったが、同社の最近の実績をみると、任天堂の将来にとって同社の価値が限定されていることは明白」「(Rareが任天堂の全世界のソフト売上で占める割合が、2001年度は9.5%、2002年度には1.5%にまで低下したため)非常にビジネス的な理由から、同社との関係維持の機会を見送った」と述べている。また、京都からは「近年、レア社のソフト開発本数が減っていたことが大きな理由。ゲームキューブの立ち上げ時にもソフトが揃わなかった」と任天堂広報がコメントしている。総合してみると売却理由は、Rareの開発力が低下しセールスが奮わなくなってきたため、ということだろうか。
 開発力という意味では、開発陣の人数を増やしてきたせいか、1999年頃からクオリティの低下が指摘されている。それに加え、『パーフェクトダーク』や『Conker's Bud Fur Day』など、ESRBのレイティングで大人向けと判断されるような、過激な表現を含んだソフトが作られるようになったのもこの時期からだ。実際『Conker's Bud Fur Day』は日本で発売されなかった(発売できなかった)わけで、任天堂とRareの距離感が深まったきたのかもしれない。一方で、任天堂の状況も変化してきている。セガやナムコ、カプコンなどとのコラボレーションでクオリティの高いソフトを発売できる目処が立ったため、思うように動いてくれないセカンドパーティ(Left Fieldもそうだが)を切った方が得策だと任天堂は考えたのだろう。
 Rare社は今後2004年までに、少なくとも5タイトルをXbox向けに投入する予定。第一弾タイトル『Kameo』は、2003年春に発売される予定。 

■会社情報
社名 Rare Limited
代表者 Christopher Stamper
設立年月日 1985年4月16日
所在地 英国ワーウィックシャー州
資本金 £14,767,000
売上高  
経常利益  
従業員数 193名
開発対応機種 GBA,XB
関連会社 Raraware Limited[ENG](Rare Ltd.への出資)
Rare Inc.[U.S.](Rare Ltd.の管理部門)
Rare Acquisition Inc.[U.S.](Rare Ltd. Rareware Ltd.への出資)
Rare Toys&Games,Inc.[U.S.](ボードゲーム等の開発)  
ホームページ http://www.rareware.com/

■主な開発作品
タイトル 機種 発売日 出荷本数
スーパードンキーコング SFC 94.11.26 300万本
スーパードンキーコングGB GB 95.07.27 108万本
スーパードンキーコング2 ディクシー&ディディー SFC 95.11.21 220万本
スーパードンキーコング3 謎のクレミス島 SFC 96.11.23 177万本
ドンキーコングランド GB 96.11.23  
Killer Instinct SFC 日本未発売  
Killer Instinct Gold N64 日本未発売  
ブラストドーザー N64 97.03.21  
ゴールデンアイ007 N64 97.08.23  
ディディーコングレーシング N64 97.11.21  
バンジョーとカズーイの大冒険 N64 98.12.06 (全世界)355万本
スターツインズ N64 99.12.01  
ドンキーコング64 N64 99.12.10 110万本
ドンキーコングGB ディンキーコング&ディクシーコング GBC 00.01.28  
パーフェクトダーク N64 00.10.21  
バンジョーとカズーイと大冒険2 N64 00.11.27  
ドンキーコング2001 GBC 01.01.21  
ミッキーのレーシングチャレンジUSA N64 01.01.21  
Conker's Bud Fur Day N64 日本未発売  
スターフォックスアドベンチャー GC 02.09.27  
Kameo XB 03



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レトロスタジオ
[Retro Studios,Inc.]



 任天堂が100%の株式を保有する開発子会社。Iguana Entertainment社を設立したJeff Spangenberg氏によって、テキサス州オースティンの地に設立された。セカンドパーティとしてゲームキューブ向けに『メトロイドプライム』を開発している。

 1991年、Iguana Entertainmentという未知のソフトハウスがスタートを切る。ビデオゲーム通のJeff Spangenberg氏に率いられた20名程度が、カリフォルニア州サンタクララに集まって、ゲームソフトを作り始めた。創立者のSpangenbergは、大学をスキップして独学でプログラミングを身に付けた程の天才だった。
 以前のIguana Entertainment社はSunsoftやAcclaimといった大企業と強い繋がりを持っているわけではなかった。Iguanaとその社員にとってベイエリアに社を置くことは、健全な経営をする上で非常に困難で、そのため移転することになった。最初はシアトルへの移転を検討したが、テキサス州のハイテク産業の集積地であるオースティンへ移転するための調査を始めることを決めた。1993年5月、Iguana社員がオースティンのロケーションを調査して、その地域を撮影したビデオテープを満足げにサンタクララへ持ち帰った。そしてその後直ぐに移転し、「1人以外の全員が、引越ししました。ただ、少しホームシックがあったものの、皆直ぐにこちらでの生活に慣れました」と、Iguanaの広報担当者は地元紙に短くコメントを寄せた。
 SunsoftとAcclaimからの資金を得て、Iguana Entertainmentは1993年多くのスタッフを雇い、翌年3月GenesisとSuper-NES向けに『NBA Jam』をリリースした。ゲームは莫大な収益を上げ、これにすかさずAcclaimは目をつけ、それから1年後の1995年AcclaimはIguanaを買収した(金額は不明)。SpangenbergはAcclaimの開発スタジオの全てを統括する立場となった。「我々は同じように優れたクオリティのゲームを出し続ける、それは我々が資源、新技術、そしてそれまで以上のゲームを供給する能力を有していることを意味している」とその年の終わり、Iguana Entertainment社はプレスにコメントした。
 Spangenbergの管理下で、1996年Iguanaは任天堂の新世代機向けのゲームを開発する。それは同名漫画が原作のFPSアクションゲーム『Turok: Dinosaur Hunter』で、NINTENDO64向けにAcclaimブランドでリリースされた(のちに日本でも『時空戦士テュロック』として発売)。以前の『NBA Jam』のように、『Turok』はIguanaにとって爆発的なヒットとなり、NINTENDO64では数少ない強力なサードパーティ製のゲームのひとつだった。このタイトルは、当時のゲーム業界で認知されていなかったAcclaimを強固な地位に引き上げるのに大いに役立った。
 しかし、1997年7月、SpangenbergがIguanaを退社したことによって事態は急転した。3ヶ月ののち、Spangenberg氏は、契約違反と不正行為があったとしてAcclaimとIguana対し訴訟を起こした。訴訟には、AcclaimがIguanaの購入代金を縮小することを企てた上に、Spangenbergは解雇されて彼が有するストックオプションを奪い取られた、と申し立てられた。Acclaimの弁護団はSpangenbergの主張を否定し、「メリットは全くない」と新聞に述べた。
 1998年10月1日に、SpangenbergはRetro Studiosを有限会社化し、その成上がり企業は25人の従業員を従えて同年12月1日に公式に運営を開始した。SpangenbergとNintendo of America会長Howard Lincolnの間で行われた協議の結果、NOAがテキサス州オースティンに40000平方フィートの新しいオフィスをRetro Studiosへ提供し、さらにRetro Studiosに少しの出資を行ったと噂されている。Rareware社とまさしく同じ形式で、Retro Studiosを任天堂のセカンドパーティへと迎え入れるユニークな契約を結んだ。当初の任天堂の出資比率は21.4%だった。
 それから2年間、Retro StudiosはNintendoの次世代機GameCube用ソフトウェアの開発に専心するために、100人以上を雇用した。Retro Studiosは金を惜しまず、LucasArtsやIguanaなど、大手のソフトハウスから有能な開発者を引き抜いたことで悪評が立った。また、重大なこととして、NOAによると、Retro Studiosのプロジェクト全てが、宮本茂氏によって監修されている。
 Retro Studiosは40000平方フィートの敷地内に巨大なモーションキャプチャールームやシアターなど最新の開発設備を備えている。これによって開発者は、3Dゲームのための躍動感溢れるアニメーションを全方位キャプチャーすることが可能になった。Retro Studiosは劇的なグラフィックスと詳細なデザインを考慮に入れることができるシステムを必要とするとともに、光学モーションキャプチャーに適した"Vicon 8"というシステムを選んだ。「多数のキャラクターによる高度に動的で、時々激しい動きのための大量のキャプチャーを許容するシステムは、Retro Studiosの仕事にとって不可欠だ。私たちはまた、運用にやさしいシステムを必要としていた―私たちが汗を流さずに、分析、終了、リセット、調整することができる」とRetro Studiosのコンピュータグラフィックスディレクター、Jorge Hernandez氏はコメントしている。
 Retro Studiosでは、任天堂の資金提供を受け、米国のRare社と成るべく、5つのGameCube用タイトルの開発が進んでいた。レースゲーム"Thunder Rally"、有名クリエイターが開発に加わったFirst Person Shooter、ファンタジーロールプレイングゲーム"Floating Cities"、フットボールゲーム、そして"Metroid"。しかし、スタッフの大量離脱の結果、"Metroid"のゲームキューブ向け最新作『メトロイドプライム』のみ開発が進められることになった。『メトロイドプライム』でFPSというジャンルに挑戦したのは宮本氏の提案によるものだが、Retro StudiosにはPC向けのゲームなどを開発してきたスタッフが多く、主観視点のゲーム制作に関する技術?ノウハウは非常に高く、その点では不安は少なかった。Retro Studios開発スタッフの斬新なアイデアを取り入れつつも、任天堂情報開発本部の監修より前作までのイメージを損なうことなく、開発は進められていった。『メトロイドプライム』は米国で2002年11月、日本では2003年2月28日に発売され、非常に高い評価を受けた。
 2002年5月、任天堂が全株式を取得し、Retro Studioは完全子会社化された。その翌年の2003年には、Spangenbergの後を継いで社長を務めていたSteve Barcia氏に代わり、新たにNOAのMichael Kelbaugh氏がRetro Studioの社長に就任した。KelbaughはNOAに15年にわたって在籍、ソフトのクオリティチェックにあたるテストグループの監督者だった経験を持つなど、セカンドパーティとの関係が深い人物だ。



■会社情報
社名 Retro Studios,Inc.
代表者 Michael Kelbaugh
設立年月日 1998年10月1日
所在地 米国テキサス州オースティン
資本金 $10,001,000
従業員数 43名
開発対応機種 GC
ホームページ http://www.retrostudios.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日  
メトロイドプライム GC 03.02.28  



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シリコンナイツ
[Silicon Knights,Inc.]



 カナダにある任天堂のセカンドパーティ。任天堂の出資比率は40.7%。
 1991年、Silicon Knightsは大学卒業したばかりの二人の人物、Dennis Dyack氏(現シリコンナイツ社長)とRick Goertz氏によって設立された。彼等が最初に手掛けたのは『Cyber Empires』と呼ばれる、パソコン向けのリアルタイムストラテジーゲームだった。5人プレイを特色とする革新的なゲームで、1992年米国と欧州市場で発売し、高い評価を受けた。
 『Cyber Empires』の開発終了後、Silicon Knightsは4人の開発スタッフを抱えていた。新たにその続編にあたる『Fantasy Empires』の開発を始め、1993年10月にPCでリリースする。
 1993年後半、Silicon Knightsは、『Dark Legions』と呼ばれるネットワークゲーム(当時ネットワークゲームは珍しく、第一世代のネットワークゲームのひとつである)を開発していた。このゲームも高い評価を受けたが、さらに彼等はもっと大がかりなプロジェクトの研究を始めた。
 それが1996年10月、プレイステーション及びPC向けに発表された『Blood Omen: Legacy of Kain』だった。高度なストーリーと幻想的なグラフィックを実現したそのRPGの出来栄えにユーザーは圧倒され、その年のE3で多くの賞を受けた。しかし、不運にもパブリッシャーとの法的な争いの結果、『Blood Omen: Legacy of Kain』の権利をパブリッシャーに譲渡し、新しいプロジェクトを進めざるを得なくなる。
 Silicon Knightsが次に開発に取り組んだゲームは、プレイステーション向けに開発されていた『Too Human』で、SFのRPGでCD-ROM4枚組、プレイ時間は80時間といわれる超大作で、1999年のE3では、未来を感じさせるグラフィックとストーリーに人々は圧倒された。2000年1月に『Too Human』はリリースされる予定となっていたが、ここで誰も想像していなかった事が起こる。任天堂がSilicon Knightsをセカンドパーティとして迎え入れることを決めたのだ。
 任天堂はSilicon Knightsの才能に惚れ込み、株式の40.7%を取得し独占的な契約を結んだ。その結果『Too Human』の開発は中止になった。そしてその直後、『エターナルダークネス』というNINTENDO64用アドベンチャーゲームを開発中であることが発表された。
 開発は遅れに遅れたが、『エターナルダークネス』の開発は90%程度進み、発売に向けて準備を始めた頃、任天堂がドルフィン(ゲームキューブ)の開発ツールの供給を開始。Silicon Knightsはゲームキューブで作った方がより良いゲームができると考え、NINTENDO64向けの開発を打ち切り、新たにゲームキューブ用タイトルとして開発することを決定した。
 『エターナルダークネス~招かれた13人』は、2002年5月に米国市場で先行発売、遅れて日本でも10月25日に発売されている。12の主人公が登場し様々な時代を駆け巡るサイコアドベンチャーゲームで、モンスターから邪悪な波動を受けることによって幻覚や幻聴が起こる“サニティ?システム”を採用。独特の恐怖感が味わえる幻想世界を実現させている。『エターナルダークネス』は大ヒットには至らなかったが、国内外を問わず、非常に高い評価を受けている。
 2003年のE3で、ゲームキューブ専用ソフト『METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKE』の開発に小島秀夫氏率いるコナミJPNと共同であたることが発表された。これは、任天堂がゲームキューブ専用の『METAL GEAR』シリーズの制作をコナミに依頼したもので、ゲームキューブ向けの開発経験を持たない小島氏の開発チームに、任天堂の宮本茂氏がSilicon Knightsを紹介し実現をみた。『METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES』は1998年にプレイステーションで発売された『METAL GEAR SOLID』のリメイクで、2001年に発売された『METAL GEAR SOLID2 SONS OF LIBERTY』のシステムを採用する。Silicon Knightsがキャラクター、ステージなどのモデリング、プログラム&サウンドを担当、コナミJPNのスタッフがカナダに常駐し現場の指揮を執るなど、コナミ側も全面協力。さらにポリゴンデモディレクターに映画『あずみ』などの北村龍平監督を据えるなど、豪華なスタッフ陣が開発にあたる。


■会社情報
社名 Silicon Knights,Inc.
代表者 Dennis Dyack
設立年月日 1991年
所在地 カナダ?オンタリオ州トロント
資本金 6,752,000Can$
売上高  
経常利益  
従業員数 72名
開発対応機種 GC
ホームページ http://www.siliconknights.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
Steel Empire / Cyber Empires PC 92  
Fantasy Empires PC 93.10  
Dark Legions PC 94  
Blood Omen: Legacy Of Kain PC,PS 96.10  
エターナルダークネス~招かれた13人 GC 02.10.25  
METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES GC 03  
Too Human GC



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アルファドリーム
[ALPHADREAM INC.]


 ゲームボーイアドバンス用ソフト『トマトアドベンチャー』『とっとこハム太郎4』などを開発し、任天堂のセカンドパーティ的な働きをみせているソフトハウス。
 人材派遣会社アルファスターの子会社。1999年5月に同社の新規事業としてゲームソフト事業部を開設する。 2000年4月にゲームソフト事業部を分社化、株式会社アルファドリームが設立される運びとなった。アルファドリームには元スクウェアの藤岡千尋氏のほか、同じく元スクウェアの水野哲夫氏や前川嘉彦氏が参画しているとみられる。
 2000年の任天堂スペースワールドで、『コトバトル』と『ギミックランド』を初出展(プレイアブル)。2001年3月に同社の第一弾タイトル『コトバトル』を発売、ゲームボーイカラー末期の名作として好評を博した。この『コトバトル』と『ギミックランド』は任天堂社内での評価が高く、『ギミックランド』は急遽ゲームボーイアドバンス用ソフト『トマトアドベンチャー』として作り直され、2002年1月に発売された。『コトバトル』と『トマトアドベンチャー』はセールス的には低調だったが、クオリティは非常に高い。
 2003年5月に発売された『とっとこハム太郎4』の開発を担当。現在は『マリオ&ルイージRPG』を開発中。

リンク 株式会社アルファスター


■会社情報 社名 株式会社アルファドリーム
代表者  
設立年月日 2000年4月
所在地 東京都渋谷区
資本金  
従業員数  
開発対応機種 GBA
ホームページ http://www.alphadream.co.jp/


■主な開発タイトル タイトル 機種 発売日  
コトバトル GB 01.03.08  
トマトアドベンチャー GBA 02.01.21  
とっとこハム太郎4 にじいろ大行進でちゅ GBA 03.05.23  
マリオ&ルイージRPG GBA



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アンブレラ
[Ambrella Ltd.]



 東京大学理論科学グループの現役学生、大学院生とそのOBが中心になって1996年6月設立。
 社名の由来は、設立当時大ヒットになっていたプレイステーション用のアドベンチャーゲーム『バイオハザード』から。
 ゲーム作りに関しては無名の存在だったが、マリーガル?マネージメントの設立を知り接触。そこからはトントン拍子に話が進み、契約クリエイターになった。
 音声認識を使ったアイデアを生かし、ピカチュウとお話ができる音声認識ゲーム『ピカチュウげんきでちゅう』を開発。この作品はマリーガルの第一弾タイトルで、80万本超の出荷を達成した。
 そして、北米ローカライズ版『HEY!YOU!PIKACHU』を開発したが、その後は情報が途絶えていた。ところが2003年のE3でゲームキューブ用ソフト『ポケモンチャンネルピカチュウといっしょ』を制作していることが明らかになった。内容はポケモンチャンネルというテレビ番組を通してピカチュウと仲良くなるのが目的のコミュニケーションソフト。

■会社情報 社名 有限会社アンブレラ
代表者 代表取締役社長 小澤宗明
設立年月日 1996年6月
所在地  
資本金  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ  


■主な開発タイトル タイトル 機種 発売日 出荷本数
ピカチュウげんきでちゅう N64 98.12.12 80万本
ポケモンチャンネル ピカチュウといっしょ GC 03.07.18  


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インテリジェントシステムズ
[INTELLIGENT SYSTEMS Co.,Ltd.]


 ゲームソフトの開発だけでなく、開発ツールをも手がける任天堂のセカンドパーティ。
 ゲーム誌やweb上では、インテリジェントシステムズの頭文字を取って“IS”と略して表記されることが多い。
 長らくISの本社屋は1988年8月に新設された任天堂の宇治小倉工場内に置かれていたが、『マリオストーリー』や『カードヒーロー』など一部の開発チームは、任天堂東山社屋内を任天堂ラボ(東山ラボ)として活動の拠点にしてきた。2000年に任天堂が東山区から南区の新社屋に移転したことに伴い、2003年よりISは本社を任天堂旧社屋(京都リサーチセンター)に移転した。
 任天堂との資本関係はないが、実質的に任天堂内の一開発部署として機能しているといっていい。よって資本金が最低資本金額の1000万円なのも、増資をする必要性がないからだろう。

 1986年12月設立。任天堂開発第一部から離脱したメンバーがインテリジェントシステムズを立ち上げたとされている(詳細は不明)。もっとも、離脱したといっても開発第一部との関係は深く、『ファミコンウォーズ』やゲームボーイのローンチタイトル3本など、ほとんどのソフトを共同で開発している。1987年には、任天堂とISの共同出資で株式会社TECが設立された。当時開発第一部の部長だった横井軍平氏の発案で作られたといわれる。このTECは、のちに(1997年?)ISが吸収合併した。
 主要な業務は、開発ツールの開発とゲームソフトの開発のふたつ。開発ツール事業は、ファミコンからゲームキューブまで任天堂のハード全てを扱っている。任天堂から仕様の開示や部品の供給も受けているため、早期に開発ツールの制作が可能で、「高品質の製品をどこよりも早くつくれ、ビジネス的に常に優位な立場を確保」(ISホームページより)してきた。ただし最近は、同じセカンドパーティのHAL研究所のSysdolphinなど他社の開発ツールが有用で、ISの比重はそれほど大きくはない(たぶん)。
 もう一方のゲームソフト開発では、ほとんどのソフトで任天堂開発第一部と共同開発というカタチをとり、ディレクター或いはスーパーバイザーとして開発第一部の人間が関与している。また、『カエルの為に鐘が鳴る』『スーパーメトロイド』などのように、プログラミングのみISのスタッフが参加するケースもある。このふたつのゲームの開発チームは、坂本賀勇氏、山根知美氏といった開発第一部の有名どころが参加している。
 ISの看板タイトルである『ファイアーエムブレム』は、ウォーシミュレーションゲーム『ファミコンウォーズ』を元に(『コンソールウォーズ』シリーズと『ファイアーエムブレム』シリーズの開発チームは基本的には同じ)、第一作目が1990年4月に開発?発売された。加賀昭三氏が同人的なノリで企画した(らしい)ものであったが、ウォーシミュレーションゲームにキャラクターの育成、人間関係が複雑に絡み合うストーリー性といった要素をプラス。さらに、辻横由佳氏が奏でる音楽は素晴らしく、シミュレーションRPGの先駆けとして、多数のファンを獲得した。続編となる『ファイアーエムブレム外伝』では2人の主人公のエピソードが複雑に交差するなど、新しいアイデアを盛り込んだ。
 1993年に、スーパーファミコンの周辺機器スーパースコープ専用ソフト『スペースバズーカ』を開発第一部と共同で開発?発売した。近未来の地球を舞台にしたガンシューティングゲームで海外を中心に人気が出た。このゲームの開発チームはチーム?バトルクラッシュと呼ばれ(由来は英題“BATTLE CRASH”から)、続いてその続編となる『メタルコンバット』を開発した。ディレクターはISの村松敏孝氏が担当。容量が前作の倍になり3Dレンダリング技術を導入した力作だったが、日本ではラインナップされなかった。海外ではガンシューティングの人気は非常に高いが、日本ではスーパースコープ自体が大型でしかも肩に担いで遊ぶというスタイルが敬遠されためか不人気で、結局発売は見送ったようだ。
 そしてチーム?バトルクラッシュは次に、15パズルにヒントを得た任天堂開発第一部?山上仁志氏の企画を元に、アクションパズルゲーム『パネルでポン』を開発した。ふたつのパネルを入れ替え、縦横に3つ以上そろうと消滅するという簡単なルールだが、斬新だったのはパネルの消滅処理中もパネルを動かせる“アクティブ連鎖”を採用したこと。これにより中毒性の高いパズルゲームに仕上がった。1995年10月に発売されたが、他社のソフトとの競合もあり期待通りには売れなかった。ヒットに至らなかった要因としてさらに、あのわけのわからないCMもやり玉に挙げられているが、任天堂らしからぬキャラクターを問題視する向きも少なくなかった。“リップルズ”と呼ばれるかわいらしい妖精キャラクターは、発売前に社内で問題になったらしいが、横井軍平氏が「これでええやないか」と言ったとか言わないとか。スーパーファミコン版が発売された1年後にゲームボーイ版が発売されるが、キャラクターは差し替えられて『ヨッシーのパネポン』として発売、CMはマトモな構成だったが、やっぱり売れなかった(思えばヨッシーはこの頃から下降線だった)。とは言え、海外ではいくつかの賞を受賞するなど、ゲーム自体の評価は非常に高いものがあった。新作が待望視されていた2000年には、キャラクターにポケモンを起用した『ポケモンでパネポン』をリリースし、ユーザー層の拡大を狙ったが、期待ほどに売れなかった(これでようやくキャラクターの問題じゃないってことがはっきりしたわけだ)。
 その間に『ファイアーエムブレム』シリーズは、1994年にスーパーファミコン向けに発売した『紋章の謎』が70万本のヒットを呼ぶ。ファミコン版のリメイクを含む2部構成で、物語も一応の完結を見る。裕木奈江を起用したCMのキャッチコピー『奈江ちゃんの勇気が、奈江ちゃんの物語を作る』も話題になった(勇気萎えという言い替えもあった)。続いて1996年5月、NINTENDO64が発売される1ヶ月前に、『聖戦の系譜』を発売した。親世代の経験が子世代に継承される恋愛システムを採用、ひとつのマップに複数の城が登場し物語を複雑化させ、さらにシリーズで初めて途中セーブが可能になった(他のシリーズでは途中セーブはできない。中断のみ)。恋愛システムと易しい難易度によって、これまでとは違ったファン層を獲得したが、FEらしさが欠けるとして古参のファンからの評価は芳しくなかった。
 『ファイアーエムブレム』シリーズの続編は、一時期NINTENDO64にもラインナップされていたが、結局プラットフォームにはこれまでと同じスーパーファミコンを選択、NINTENDO POWER書き換え用ソフトとして1999年夏リリースされた。サブタイトルは『トラキア776』で、物語は『聖戦の系譜』を補完する形を取っている。システムは『紋章の謎』に近く、難易度は非常に高くやり応え充分で、硬派なユーザーを充分に満足させた。しかし、シリーズの存続が危ぶまれる事態が起きていた。『トラキア776』の発売前後、FEの生みの親の加賀昭三氏がISを退社?独立したのだった。加賀氏はプレイステーション用ソフト『ティアリングサーガ』をエンターブレインから発売したが、ファミ通誌上で過去の『ファイアーエムブレム』シリーズとの関連性を加賀氏が示唆したことやゲーム内容の類似性を問題にして、任天堂 ISがエンターブレインらを不正競争防止法と著作権法違反で提訴し裁判沙汰に。一審は任天堂の訴えを棄却したが、任天堂がすぐに控訴、裁判は現在も係争中である。(詳細はティアリングサーガ裁判情報のページへ)
 1997年頃から、開発第一部 坂本賀勇氏のカードゲームの企画を元に、共同開発を始めた。これがのちに『カードヒーロー』と呼ばれるゲームになる。坂本氏以外は全てISの開発スタッフで、メインプログラムを『スーパーメトロイド』以来のコンビとなる今井賢治氏が担当。2年以上をかけてコンピューターの思考ルーチンを作りこむなど開発は長引いたが、ようやく2000年2月に発売された。ちなみに、『カードヒーロー』には加賀昭三氏がアドバイザーとしてクレジットされており、しかも熱烈にプッシュしていたのがエンターブレイン発行のファミ通というのだから、なんとも不思議な関係である。
 また、1996年に任天堂が『スーパーマリオRPG』のNINTENDO64版続編の開発スタッフを募集、ここで集められたスタッフはISに入社した。任天堂情報開発本部の監修?サポートを受けて、開発はすぐにスタートしたが、開発のペースは上がらず難航。ベースコンセプトをまとめるのに1年半、最終的には4年弱もかけてようやく『マリオストーリー』として2000年8月に発売、日の目を見ることになった。この『マリオストーリー』開発チームはその後、『マリオカートアドバンス』『動物番長』を開発、情報開発本部付きの開発チームとして、ISの開発ラインの柱となっている。
 2000年8月のスペースワールドで、『ファイアーエムブレム』シリーズの続編の制作がゲームボーイアドバンスで無事始まっていることが明らかになった。合わせて『ゲームボーイウォーズアドバンス』も発表されていたがこちらは、米国同時多発テロ事件の影響を受け、2001年10月に予定されていたリリースを急遽自粛、結局日本では発売中止となってしまった。そして、2002年3月に2年半ぶりの新作となる『ファイアーエムブレム封印の剣』は無事に発売された。ディレクターに成広通氏、シナリオに堀川将之氏、スーパーバイザーに西村建太郎氏と、これまでのシリーズに関わっていたスタッフが多く参加し、これまでの『ファイアーエムブレム』と変わらぬデキの良さでファンを安心させた。
 2003年のISの最初の作品は『NINTENDOパズルコレクション』。これに収録されている『パネルでポン』はNSTが2000年にNINTENDO64で開発していた『Pokemon Puzzle League』のリメイク版で、そのグラフィックとGBAジョイキャリー版の制作をISが担当している。4月に早くもリリースされたシリーズ最新作『ファイアーエムブレム烈火の剣』は、ゲームを進めながらチュートリアルも兼ねるというユーザーフレンドリーさと、プレイヤーが軍師として参加できる軍師システムを導入し、こちらも評価が高い。


■会社情報
社名 株式会社インテリジェントシステムズ
代表者 北西亮一
設立年月日 1986年12月
所在地 京都市東山区
資本金 1000万円
事業内容 1.ゲームソフトの開発
2.ゲーム開発ツールの開発
3.パソコンネットウェアのシステム開発
従業員数 81名(2003年7月現在)
従業員平均年齢 30.1歳
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.intsys.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ファミコンウォーズ FC 88.08.12  
アレイウェイ GB 89.04.21  
ベースボール GB 89.04.21  
役満 GB 89.04.21  
ゴルフ GB 89.11.28  
ファイアーエムブレム FC 90.04.20  
シムシティー SFC 91.04.26  
ゲームボーイウォーズ GB 91.05.21  
ファイアーエムブレム外伝 FC 92.03.14  
マリオペイント SFC 92.07.14  
カエルの為に鐘が鳴る GB 92.09.14  
スペースバズーカ SFC 93.06.21  
スーパースコープ6 SFC 93.06.21  
Metal Combat SNES 日本未発売  
ファイアーエムブレム 紋章の謎 SFC 94.01.21 70万本
スーパーメトロイド SFC 94.03.19  
ギャラクティックピンボール VB 95.07.21  
パネルでポン SFC 95.10.27  
ファイアーエムブレム 聖戦の系譜 SFC 96.05.14 48万本
ヨッシーのパネポン GB 96.10.26  
Tetris Attack SNES 日本未発売  
スーパーファミコンウォーズ SFC 98.05.01  
ファイアーエムブレム トラキア776 SFC 99.09.01  
カードヒーロー GB 00.02.21  
マリオストーリー N64 00.08.11  
ポケモンでパネポン GBC 00.09.21  
Pokemon Puzzle League N64 日本未発売  
マリオカートアドバンス GBA 01.07.21 (全世界)248万本
Advance Wars GBA 日本未発売  
動物番長 GC 02.02.21  
ファイアーエムブレム 封印の剣 GBA 02.03.29  
NINTENDOパズルコレクション GC 03.02.07  
ファイアーエムブレム 烈火の剣 GBA 03.04.25


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エイプ
[APE INC.]



 1989年設立。
 社名の由来は、類人猿(=APE)から。
 「このままではいずれゲームのアイデアが枯渇するだろう」「ゲーム業界を支えていくのは一握りの天才である」との考えを持っていた任天堂の山内社長が、糸井重里氏が持つ人脈に目をつけ設立された。ゲーム業界の内外を問わず、糸井氏を介して新鮮な感性を持った様々なクリエイターが集まり、任天堂のゲーム制作に生かされることになった。
 エイプに集まってきた人材は数多い。石原恒和氏(現TPC社長)、田尻智氏(ゲームフリーク社長、ポケモンの企画をエイプに持ち込んだ)、伊藤あしゅら紅丸氏(イラストレーター)、三浦明彦氏(現ジニアス?ソノリティ企画室長)、三浦昌幸氏(現TPC)、戸田昭吾氏(現クリーチャーズ)、陣内弘之氏(現クリーチャーズ)など多数。
 『MOTHER2 ギーグの逆襲』を制作後、エイプは休眠状態に陥った。このため、石原恒和氏がメンバーを引き連れ、新会社クリーチャーズを設立した。

■会社情報
社名 株式会社エイプ
代表者 糸井重里
設立年月日 1989年
所在地 東京都
資本金  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
MOTHER FC 89.07.27  
モノポリー(発売元:トミー) SFC 93.03.05  
マリオとワリオ SFC 93.08.27 50万本
MOTHER2 ギーグの逆襲 SFC 94.08.27  
マリオのピクロス GB 95.03.14

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SRDゲーム事業部
[Game Development Division of Systems Research & Development Co.,Ltd]

 任天堂ソフトのプログラム開発を行っている協力会社。SRDの本社は大阪市にあり、任天堂との資本関係もないが、ゲーム事業部(京都事業所)は任天堂本社屋内に所在している。事実上、任天堂専門のプログラム開発部隊といえよう。
 ファミリーコンピュータの発売を翌年に控えた1982年、ソフト開発力の強化が任天堂の課題であった。また、当時はファミコン以外にもアーケードゲームやゲーム&ウォッチなどを手がけており、開発者が不足していた。そこで白羽の矢が立ったのがこのSRDであったようだ。以来、任天堂とは20年来のパートナーとして活躍することになる。
 1984年以降は情報開発部付きのプログラムチームとして活躍。『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』など、任天堂の主要タイトルのプログラム開発に携わってきた。


 その他詳細は不明だが、SRDの事を指していると思われる山内前任天堂社長の発言をここに紹介しておく。

「…実は任天堂の社内に任天堂の社員でない人間が数十人います。何をしているかと言うと、毎朝社員と同じように任天堂へ来て、開発の仕事をしています。」
「もとは人材派遣会社で契約したのが時代が流れて居ついたと言えばよいでしょうか。ただ、任天堂の社員にしてしまうと、任天堂のすべての規定が適用されますから、そういう派遣会社もつぶれてしまうんです。働く人たちの意識にしても、自分たちはこういう形で仕事をしたいんだ、つまり任天堂の規定の中に組み込まれず、年俸いくらというような希望をする人が非常に多いんですね。だから、無理をしないで、こういうようなフリーの形にしています。」(『日本企業復活の条件』より)


■会社情報
社名 株式会社エス.アール.ディー
役員 門脇克彦(代表取締役社長)
中郷俊彦(常務取締役ゲーム事業部長)
近藤睦美(取締役)
湊康祐(取締役)
設立年月日 1979年1月22日
所在地 本社=大阪市淀川区
京都事業所=京都市南区任天堂社内
資本金 9000万円
売上高 6億800万円
経常利益 1億1400万円(2001年12月期)
従業員数 53名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.srdgame.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
エキサイトバイク FC 84.11.30 157万本
スパルタンX FC 85.06.21 142万本
ゼルダの伝説 FCD 86.02.21 169万本
リンクの冒険 FCD 87.01.14 161万本
スーパーマリオワールド SFC 90.11.21 355万本
ゼルダの伝説 神々のトライフォース SFC 91.11.21 116万本
ゼルダの伝説 夢をみる島 GB 93.06.08 54万本
スーパーマリオコレクション SFC 93.07.14 212万本
スーパーマリオ ヨッシーアイランド SFC 95.08.05 177万本
マーヴェラス~もうひとつの宝島 SFC 96.10.26  
スターフォックス64 N64 97.04.27  
ヨッシーストーリー N64 97.12.21  
ゼルダの伝説 時のオカリナ N64 98.11.21 146万本
スーパーマリオブラザーズDX GBC 00.03.01  
ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 N64 00.04.27  
コロコロカービィ GBC 00.08.23  
スーパーマリオアドバンス GBA 01.03.21 89万本
どうぶつの森 N64 01.04.14  
どうぶつの森+ GC 01.12.14  
スーパーマリオアドバンス2 GBA 01.12.14 67万本
スーパーマリオアドバンス3 GBA 02.09.20  
ゼルダの伝説 風のタクト GC 02.12.13


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エヌジーシー(ニチメングラフィックス)
[NGC corporation]



 任天堂の協力会社のひとつ。
 ニチメンの子会社で、任天堂のゲームソフト開発のサポート業務を請け負っていた。NINTENDO64のゲーム開発を手がけるソフト会社を支援。任天堂が社内に設けている「任天堂テクニカルサポートセンター(NTSC)」に社員を派遣、ソフト会社からの要望に応える。またソフト会社へのコンサルティングも実施。
 N64用の開発ツール「N-WORLD」を開発した。
 64DD用ソフト『マリオアーティストポリゴンスタジオ』の開発に参加。
 現在は、プラットホームがゲームキューブに移ったが、任天堂との関係は継続していないようだ。
 なお、2000年に、ニチメングラフィックスから株式会社エヌジーシーに社名変更されている。

■会社情報
社名 株式会社エヌジーシー
代表者 代表取締役 内田潤
設立年月日 1985年7月29日
所在地 東京都品川区
資本金 1億円
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ http://www.ngc.co.jp/

■主な開発タイトル
マリオアーティスト ポリゴンスタジオ 64DD 00.8  

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エヌディーキューブ
[NDCUBE Co.,Ltd.]



 任天堂と電通が合弁で設立した開発会社。
 2000年3月、コンピュータソフトウェアの企画、開発などを目的として、資本金3億円(出資比率任天堂78%、電通13.3%)でエヌディキューブ株式会社を設立。所在地は東京都台東区で、任天堂東京事務所と同じビルにある。代表取締役には電通出身の相良守哉氏が就任。当初の報道では、モバイルアダプタ対応のゲームボーイアドバンス用ソフトを開発し、「50万本以上の売上を見込む」という今西紘史取締役広報室長(当時)のコメントが寄せられていた。
 2001年3月、ベネッセやエイベックス、ギャガ?コミュニケーションズなどを引受先とする第三者割当増資を実施。資本金が5億5000万円に増強、資本比率は任天堂64%、電通11%となった。これにより、ベネッセやエイベックスなどが持つ教育や音楽、映像分野でのノウハウを生かした、教育ソフトやゲームソフトが制作されていくことになる。
 ゲームボーイアドバンスのローンチタイトル『F-ZERO FOR GAMEBOY ADVANCE』は、任天堂開発第一部との共同開発。また、2001年10月発売の『どこでも対局役満アドバンス』の開発も行い、任天堂のセカンドパーティとしても機能している。
 2002年10月、パソコン用ゲームソフト企画?販売大手のメディアカイトと提携し、ゲームキューブ用ソフトの開発を開始した。第一弾はビリヤードゲーム『プールエッジ』と『カードパーティ』で、発売元はメディアカイトとなる。
 2002年12月13日、「エヌディキューブ」から「エヌディーキューブ」へ社名変更した。

■会社情報
社名 エヌディーキューブ株式会社
代表者 代表取締役社長 相良守哉
設立年月日 2000年3月1日
所在地 東京都台東区
資本金 550,875,000円
主要株主 任天堂株式会社
株式会社電通
株式会社アクセル
株式会社アジオカ
エイベックス株式会社
株式会社ギャガ?コミュニケーションズ
株式会社ベネッセコーポレーション
従業員数 43名(平均年齢29.0歳)
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.ndcube.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日  
F-ZERO FOR GAMEBOY ADVANCE(発売元:任天堂) GBA 01.03.21  
EZ-TALK(発売元:キーネット) GBA 01.03.21  
どこでも対局役満アドバンス(発売元:任天堂) GBA 01.10.26  
ミニモニ。ミカのハッピーモーニングchatty(発売元:SMDE)  GBA 02.04.01  
プールエッジ(発売元:メディアカイト) GC 02.10.25  
カードパーティ(発売元:メディアカイト) GBA 02.10.25  
サイバードライブゾイド 機獣の戦士ヒュウ(発売元:トミー) GBA 03.07.18  
Tube Slider GC


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キャメロット
[CAMELOT CO., LTD.]


 1994年4月設立。高橋兄弟率いるソフトハウス。最近は任天堂のセカンドパーティと称されることも多いが、任天堂との資本関係はない。
 立ち上げの詳しい経緯は不明だが、セガと共同出資で運営していた株式会社ソニックの高橋宏之氏らが、他機種への参入を目指して設立したものとみられる。
 社名の由来は、伝説のアーサー王の宮殿のあった場所キャメロットから。
 キャメロット設立当初は、ソニックは兄の宏之氏が、キャメロットは弟の秀五氏がプロデュースする形になっていたようだ(クレジットを見る限り)。しかし、1997年以降の『シャイニング?フォースIII』を最後に、それ以後ソニックの名を見ることはなくなった。この頃、ソニックとしての活動は停止したようで、2002年3月に発売された『シャイニング』シリーズの最新作『シャイニング?ソウル』にはキャメロット及びソニックは全く関わっていない。
 ちなみに、『ソニックアドベンチャー』や『ファンタシースターオンライン』を開発した株式会社ソニックチームと株式会社ソニックは全く無関係なので誤解なきよう。
 1994年プレイステーションに参入したキャメロットは、『ビヨンド?ザ?ビヨンド』『みんなのゴルフ』を開発(発売はSCE)。しかし、『みんなのゴルフ』にムービーを付けろ、と言ったらしいSCEに反発して(?)、プレイステーション向けにはこの2作品のみで打ち止め。
 1998年、招布の支援を受けてNINTENDO64向けのソフトの開発を始める。作っていたのはゴルフゲームで、その出来の良さに感心したNOAのスタッフが、キャラクターにマリオを使うように勧めて、『マリオゴルフ64』として開発されるようになった。1999年に『マリオゴルフ64&GB』、2000年に『マリオテニス64&GB』を開発。ポケモン関連以外では使い道が少なかった周辺機器64GBパックの使用率を引き上げた。少ない人数ながら短期間でクオリティの高いゲームを作るキャメロットは非常に高く評価されている。
 ゲームボーイアドバンス向けには、本格RPG『黄金の太陽』シリーズを開発、第一作目は全世界でミリオンセラーを達成した。現在は『マリオテニス』『マリオゴルフ』のゲームキューブ向け最新作を開発中。

■会社情報
社名 株式会社キャメロット
代表者 代表取締役社長 高橋宏之
設立年月日 1994年4月4日
所在地 東京都新宿区
資本金 6000万円
売上高 48000万円(2002年3月期)
経常利益  
従業員数 31名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.camelot-soft.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ビヨンド?ザ ビヨンド PS 95.11.03  
みんなのGOLF PS 97.07.17 211万本
シャイニングフォースIII シナリオ1 王都の巨神 SS 97.12.11  
シャイニングフォースIII シナリオ2 狙われた神子 SS 98.04.29  
シャイニングフォースIII シナリオ3 氷壁の邪神宮 SS 98.09.23  
マリオゴルフ64 N64 99.06.11  
マリオゴルフGB GBC 99.08.10  
マリオテニス64 N64 00.07.21 110万本
マリオテニスGB GBC 00.11.01  
モバイルゴルフ GBC 01.05.11  
黄金の太陽~開かれし封印~ GBA 01.08.01 (全世界)100万本
黄金の太陽~失われし時代~ GBA 02.06.28  
マリオゴルフ ファミリーツアー GC 03  
マリオゴルフ アドバンスツアー GBA 03  
マリオテニスGC GC 03  
マリオテニスGBA GBA 03


TOP

クエスト
[QUEST corp.]



 1988年設立。
 1993年に開発、発売した『伝説のオウガバトル』がヒットし高い評価を得る。続編として1995年に発売した『タクティクスオウガ』は熱狂的な支持を受け、現在でもその人気は衰えていない。
 1995年、『タクティクスオウガ』の制作後主要メンバー3人が退社し、『オウガバトル』の続編の開発に支障がないか心配されたが、任天堂の支援もあり、1999年7月無事に発売された。
 2002年6月19日、ゲーム開発部門をスクウェアに譲渡したことを発表。クエストの開発チームはスクウェアに移籍し、現在は『ファイナルファンタジータクティクスアドバンス』を開発中。また、『オウガバトル』の版権もスクウェアが獲得し、今後『オウガバトル』の続編はスクウェアが開発 発売することになる。

■会社情報
社名 株式会社クエスト
代表者 代表取締役社長 徳川誠
設立年月日 1988年7月
所在地 東京都世田谷区
資本金 3000万円
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ http://www.quest-kk.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
マジカルチェイス(発売元:パルソフト) PCE 91.11.15  
伝説のオウガバトル The March of The Black Queen SFC 93.03.12 40万本
タクティクスオウガ Let Us Cling Together SFC 95.10.06 45万本
オウガバトル64 Person of Lordly Caliber(発売元:任天堂) N64 99.07.14  
タクティクスオウガ外伝 The Knight of Lodis(発売元:任天堂) GBA 01.06.21


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クリーチャーズ
[Creatures Inc.]



 1995年設立。任天堂が10%程度出資しているセカンドパーティ。
 『MOTHER2』の開発後、エイプが休眠状態に陥いり、石原恒和氏がスタッフを連れ独立して設立された。石原氏が代表取締役、伊藤あしゅら紅丸氏が取締役に就任した。
 ゲームフリークと『ポケットモンスター』の開発委託契約を結び、プロデュースを担当。さらに『ポケットモンスター』を題材にしたトレーディングカードゲーム『ポケットモンスターカードゲーム』を制作。メディアファクトリーという発売元を得て、1996年10月に発売された。発売初年度には8700万枚、1997年度は4億9900万枚、さらに1998年度は7億6400万枚を出荷し、一大ヒット商品になった。トレーディングカード人気に拍車がかかり、他社もトレーディングカードを相次いで投入、『ポケットモンスターカードゲーム』の1999年度の出荷枚数は5億3000万枚にとどまったものの、発売から3年半の国内累計出荷枚数は18億枚以上に達した。さらに海外に進出し、本家のゲームを上回る人気をみせ、2002年1月現在での全世界の累計出荷枚数は130億枚に上った。
 ゲームソフトでは、『ポケモンスタジアム』シリーズのポケモンモデリングを担当。『風来のシレン2』『大乱闘スマッシュブラザーズDX』の制作にも参加した。自社開発のゲームソフトとしては、『ちっちゃいエイリアン』を2001年2月に発売。このソフトには元任天堂の田中宏和氏がディレクターを務めている。
 2001年、株式会社ポケモンの業容拡大に伴い、社長を兼任していた石原恒和氏がクリーチャーズの社長を退任。代表取締役社長には田中宏和氏が就任した。
 現在は、ゲームキューブ、ゲームボーイアドバンスのソフトを開発しているものと思われる。

■会社情報
社名 株式会社クリーチャーズ
代表者 代表取締役社長 田中宏和
設立年月日 1995年11月8日
所在地 東京都中央区
資本金  
売上高  
経常利益  
従業員数 70名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.creatures.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ポケモンスタジアム N64 98.08.01 137万本
ピカチュウげんきでちゅう N64 98.12.12  
ポケモンスナップ N64 99.03.21  
ポケモンスタジアム2 N64 99.04.30  
MOTHER3 豚王の最期 N64 開発中止  
風来のシレン2 鬼襲来!シレン城! N64 00.09.27  
ポケモンスタジアム金銀クリスタルバージョン N64 00.12.14 114万本
ちっちゃいエイリアン GBC 01.02.27  
大乱闘スマッシュブラザーズDX GC 01.11.21 100万本
   

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クレバートリック
[CLEVER TRICK INC.]



 マリーガルの契約スタジオのひとつ。
 代表取締役社長の安田彰男氏は、シミュレーションゲームの開発に長けたゲームデザイナーで、プログラマ大河原恵一氏と共に中心となって開発を進めた。
 彼らが開発する『エコーデルタ』は、制限時間内に、スカウトと呼ばれる特殊潜水艇で海底に埋まっている資源を採取して、遭難船をサルベージするのが目的のリアルタイムストラテジーゲーム。資源はレーダーで探索し採掘した後、潜水艇や起動したプラント(生産基地)、ガンナー(砲台)をレベルアップすることができる。集めた資源を遭難船、潜水艇、プラント、ガンナーのどれに投資するかがゲームの重要なポイントで、戦略シミュレーションというよりは、投資シミュレーションに近い。また、“エコー”の名の通り、音が重要で、プラントやレーダーが発する音がプレイを左右する。2人同時プレイも可能。
 開発は難航したが2000年の任天堂スペースワールドで初公開、一部で注目された。発売日も2000年12月と発表されたものの、発売中止となってしまった。


■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
エコーデルタ N64 発売中止  

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ゲームデザイナーズ スタジオ
[THE GAME DESIGNERS STUDIO,INC.]



 スクウェアエニックスの子会社。
 2002年3月、スクウェアはゲームデザイナーズ スタジオ(GDS)を通じて、任天堂ハードに参入することは表明。ファンドキューの支援を受け『ファイナルファンタジー』の新作を開発していることを発表した。
 当初の報道によると、GDSの社長には河津秋敏氏が就任。資本金は1000万円で、出資比率は河津秋敏氏51%、スクウェア49%とし、2002年4月中に設立されると報道されていたが、実際のGDSは1999年7月にスクウェアが設立していた子会社スクウェアネクストを発展改組したものであるようだ。
 出資比率は、GDSの実質的な支配権を握っているのはスクウェアではなく河津氏になるが、これはスクウェアの大株主であるSCEに配慮したものと見られる。
 GDSはペーパーカンパニー的存在らしい。GDSの依頼を受ける形で、ゲームボーイアドバンス向けのタイトルをスクウェアが開発。さらに、ゲームキューブ ゲームボーイアドバンス連動タイトル『ファイナルファンタジークリスタルクロニクル』をファンドキューの支援を受け開発する(実際の開発はスクウェア第二開発事業部の十数名が担当)。


■会社情報
社名 株式会社ゲームデザイナーズ スタジオ
代表者 河津秋敏
設立年月日 1999年7月
所在地  
資本金 1000万円
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ファイナルファンタジー?クリスタルクロニクル GC 03.08.08  



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ゲームフリーク
[GAMEFREAK INC.]



 田尻智氏が『クインティ』で得た収益を元手に設立したソフトハウス。
 社名の由来は、田尻氏が制作していたミニコミ誌『ゲームフリーク』から。
 1990年、田尻氏が『ポケットモンスター』の原型となる『カプセルモンスター』の企画を持ってエイプに訪れ、任天堂が開発費の支出を決定し、開発がスタートした。1991年末が納期だったが開発は難航し、1992年からの数年間は開発そのものがストップしてしまう。そのため『ポケモン』の開発と並行して、別のソフトの開発に取り掛かる。そうして作られたのが『ヨッシーのたまご』で、国内販売本数が100万本を越え、ゲームフリークは資金面での不安はなくなった。
 しかしその頃、『クインティ』を共に開発したプログラマ達がゲームフリークを去ったことにより、第二の創業と言っていいほどメンバーの大半が入れ替わった。現在のゲームフリークには『クインティ』の開発メンバーが、田尻氏と杉森氏、増田順一氏の3人しか残っていない。
 『ヨッシーのたまご』以降、ゲームフリークは5本のゲームソフトを開発するが、ポケモンが完成する気配はなかった。しかし1994年に転機が訪れる。エイプが休眠状態に陥り、石原恒和氏が設立したクリーチャーズとの開発契約を新たに締結したのを契機に、『ポケットモンスター』の開発が本格的に再開され、一気に完成へと向っていった。
 当初は1995年夏に発売される予定が、延々と続いたデバッグ作業の影響もあり、発売は延期されていく。さらに大きな二つの仕様の変更がスケジュールの遅延の最大の要因だった。
 ひとつは、バックアップメモリの容量の拡張だった。当時は8キロバイトのSRAMが主流で、ポケモンを30匹しかセーブできなかった。150匹以上のポケモンをセーブするには32キロバイトのSRAMが必要だったが、田尻氏と石原氏で任天堂を説得。最後は任天堂の宮本茂氏が32キロバイトのSRAMの採用を決め、「別のゲームになったね」と言ったほどゲームに奥行きが出てきた。
 ふたつめは、ROMが複数になったことだった。田尻氏はIDナンバーを設定することにより、個々のカートリッジを区別するというアイデアを任天堂に提案。それに対して宮本氏はわかりづらいと答え、色違いのROMを出すというアイデアが新たに出てきた。結局、IDナンバーによる個別化ができる、2種類のROMが発売されることになった。
 1995年8月に発売される予定が、2度に渡る仕様変更とそれによるデバッグ作業の肥大化により、マスターアップを迎えたのは1995年の暮れのことだった。
 かくして『ポケットモンスター赤 緑』は1996年2月27日に発売された。初回の出荷本数は23万5000本で周囲の期待は低かった。しかし、追加出荷されるようになり、その量も5万本、10万本と増加。ミリオンセラーを達成したのは、発売から7ヵ月後の1996年9月だった。その後も1996年10月に『ポケットモンスター青』、1998年9月に『ポケットモンスターピカチュウ』を投入し、『ポケットモンスター』ファーストシリーズの国内累計出荷本数は1300万以上にも上った。
 1998年に発売のゲームボーイカラーに対応した続編が、『ポケットモンスター金 銀』として1999年11月21日発売され、どちらも300万本以上のセールスを達成。翌年12月にはゲームボーイカラー専用の『ポケットモンスタークリスタル』を発売し、『ポケットモンスター』セカンドシリーズの国内累計出荷本数は、900万本以上に達した。
 そして『ポケットモンスター』人気は海外にも飛び火。ゲームソフト、カードゲーム、テレビアニメーションを同時に展開するプロモーション戦略が成功。RPGは海外ではウケないという前評判を打ち破り大ヒットし、2002年1月時点での全世界の累計出荷本数は7200万本以上。アニメーションは世界68ヶ国で放映、『ポケットモンスターカードゲーム』は130億枚出荷された。わずか数年の間で“ポケモン”は世界で最も成功したプロジェクトになった。
 現在、ゲームフリークは『ポケットモンスター』のサードシリーズ、『ポケットモンスタールビー?サファイア』を開発中で、国内では2002年11月21日に発売される予定になっている。

■会社情報
社名 株式会社ゲームフリーク
代表者 代表取締役社長 田尻智
設立年月日 1989年4月26日
所在地 東京都
資本金  
売上高  
経常利益  
従業員数 37名
開発対応機種 GBA
ホームページ http://www.gamefreak.co.jp/


■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
クインティ(発売元:ナムコ) FC 89.06.27 20万本
ジェリーボーイ(発売元:エピック ソニー) SFC 91.09.13 5万本
ヨッシーのたまご FC/GB 91.12.14 100万本
まじかるタルるートくん(発売元:セガ?エンタープライゼス) MD 92.04.24 6万本
マリオとワリオ SFC 93.08.27 50万本
ノンタンといっしょ くるくるパズル(発売元:ビクターエンターテインメント) GB 94.04.28  
パルスマン(発売元:セガ エンタープライゼス) MD 94.07.22  
ポケットモンスター緑 GB 96.02.27 404万本
ポケットモンスター赤 GB 96.02.27 418万本
バザールでござーるのゲームでござーる(発売元:NECホームエレクトロニクス) PCE 96.07.26  
ポケットモンスター青 GB 96.10.15 201万本
BUSHI青龍伝~二人の勇者~(発売元:T&Eソフト) SFC 97.01.17  
ポケットモンスターピカチュウ GB 98.09.12 316万本
クリックメディック(発売元:SME) PS 99.01.28  
ポケットモンスター金 GB 99.11.21 353万本
ポケットモンスター銀 GB 99.11.21 364万本
ポケットモンスタークリスタル GBC 00.12.14 210万本
ポケットモンスタールビー/サファイア GBA 02.11.21  
ポケモンボックス ルビー&サファイア GC 03.05.30


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猿楽庁
[SARUGAKUCHO Inc.]



 ゲームのチューニング、デバッグを専門に行う会社。
 任天堂とリクルートの合弁会社マリーガルマネジメントのチューニング担当部署として1998年2月に発足。2001年4月、株式会社猿楽庁として独立法人化。2001年10月、エンターブレインが株式の90%を取得し、同社の子会社となった。
 ゲームのチューニングとは、デザイン、画像、音声、ゲームバランスや操作性や仕様の修正など出来具合を検証し、外部から客観的な意見を開発チームに与える。いわば、ゲームのクオリティを高め磨き上げるコンサルティング業務である。ホームページには「「創る人」と「遊ぶ人」の間に立つ「磨く人」として、ひとりでも多くの人が幸せになれるよう、魂を注ぎ込んでいきます」とある。
 これまでチューニングを担当したソフトは『ポケットモンスター金/銀』『Rez』『カスタムロボ』など多数。
 猿楽庁の名付け親は糸井重里氏。マリーガル本社の所在地であった渋谷区猿楽町が原点であり、その「魂」を忘れないように!という思いを込め名付けたという。
 2003年3月期までソフトハウスからソフトごとに受託していたが、現在はソフトハウスとの年間契約を導入し総合的なコンサルティング業務も新たに手掛けている。

■会社情報
社名 株式会社猿楽庁
代表者 代表取締役 橋本徹
設立年月日 1997年11月7日
所在地 東京都渋谷区
資本金 1000万円
売上高  
経常利益  
従業員数  
ホームページ http://www.sarugakucho.jp/

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サルブルネイ
[SaruBURUNEI]


 サルブルネイはデザイナーの松本弦人氏を中心としている。マリーガルの契約クリエイターチーム。
 『動物番長』は「人間失格!動物合格!」をキーワードに、人間の動物的な本能を追及した独特の世界観を持つ。『パラッパラッパー』にも関わった伊藤ガビン氏も協力している。

■会社情報
社名 サルブルネイ
代表者 松本弦人
設立年月日  
所在地  
資本金  
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
動物番長 N64 発売中止  
動物番長 GC 02.02.21


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ジニアス ソノリティ
[Genius Sonority Inc.]



 『ドラゴンクエスト』シリーズの開発を担当していたハートビートの社長山名学氏が、任天堂と株式会社ポケモン(TPC)の出資を受け設立した新会社。資本金は1億円で、株主構成は山名学氏と任天堂とTPCの三者で構成。出資比率は不明。
 この新会社には、山名氏のほかに、『ドラゴンクエスト』シリーズのサウンドエンジニアの多和田吏氏や、『MOTHER2』ゲームデザイナーの三浦明彦氏らが参加している。今後はゲームキューブとゲームボーイアドバンス向けの大規模RPGの開発を進める。設立当初の社員数は9名、現在も32名と少数で、ホームページでは開発スタッフを随時募集している。 『ジニアス?ソノリティ』という社名には、“才気が心に響き渡る”という意味が込められている。その名のとおり、新機軸のRPGの開発が期待されるところだ。
 現在は、ゲームボーイアドバンスで発売され大ヒットした『ポケットモンスタールビー サファイア』のエキスパンションソフト『ポケモンコロシアム』を開発している。もうひとつ開発ラインがあるかどうかは?


■会社情報
社名 株式会社ジニアス ソノリティ
代表者 代表取締役 山名学
設立年月日 2002年6月
所在地 東京都中央区
資本金 1億円
売上高  
経常利益  
従業員数 32名(設立時9名)
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.geniussonority.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ポケモンコロシアム GC 03

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ジュピター
[Jupiter Corporation]


 京都にあるソフトハウス。本社屋は京都市伏見区の大手筋近くにある。
 『ピクロス』シリーズの開発元で、元々『ピクロス』はジュピターが任天堂に持ち込んできた企画だった。エイプの石原恒和氏がプロデュースを担当した『マリオのピクロス』は大ヒットした。
 以降、任天堂の協力会社として、『ポケットカメラ』や『ポケットピカチュウカラー!金 銀といっしょ!!』、『ポケモンピンボール』などの開発に携わっている。
 最近ではポケモンミニ対応のゲームを多く開発していた。ゲームボーイアドバンスでは『ポケモンピンボール ルビー&サファイア』の開発を担当した。
 現在は『キングダムハーツ~チェインオブメモリーズ』を開発中。『キングダムハーツCOM』の制作は、ジュピターが持ち込んだゲームボーイアドバンス上で動く前作のムービーのデキの良さから実現した。アニメーションパターンも前作のデータをドットに落として描いている。

■会社情報
社名 株式会社ジュピター
代表者 中山誠
設立年月日 1993年6月11日
所在地 京都市伏見区
資本金 6000万円
売上高 約4億円(2001年12月)
経常利益  
従業員数  
開発対応機種 GBA,PM
ホームページ http://www.jupiter.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日  
マリオのピクロス(発売元:任天堂) GB 95.03.14  
マリオのスーパーピクロス(発売元:任天堂) SFC 95.09.14  
ピクロス2(発売元:任天堂) GB 96.10.19  
ポケットカメラ(発売元:任天堂) GB 98.02.21  
ミニ四駆レッツ&ゴー!!POWER WGP2(発売元:アスキー) SFC 98.10.01  
ピクロスNP Vol.1~8(発売元:任天堂) SFC 99.04.01  
ポケモンピンボール(発売元:任天堂) GB 99.04.14  
ポケットピカチュウカラー 金?銀といっしょ!!(発売元:任天堂) PDA 99.11.21  
ポケットサクラ(発売元:メディアファクトリー) PDA 00.06.23  
サクラ大戦GB 檄!花組入隊!(発売元:メディアファクトリー) GBC 00.07.28  
スーパーロボットピンボール(発売元:バンプレスト) GBC 01.02.23  
激走ダンガンレーサー 音速バスターDANGUN弾(発売元:イマジニア) GBC 01.10.12  
サクラ大戦GB2 サンダーボルト作戦(発売元:セガ) GBC 01.12.06  
筋肉番付~決めろ!奇跡の完全制覇~(発売元:コナミ) GBA 01.12.06  
ポケモンピンボールミニ(発売元:ポケモン) PM 01.12.14  
ポケモンパズルコレクション(発売元:ポケモン) PM 01.12.14  
アニマルマニア~どきどき相性チェック~(発売元:コナミ) GBA 02.01.31  
ポケモンパズルコレクション2(発売元:ポケモン) PM 02.04.26  
ポケモンレースミニ(発売元:ポケモン) PM 02.07.19  
トゲピーのだいぼうけん(発売元:ポケモン) PM 02.10.18  
ポケモンそだてやさんミニ(発売元:ポケモン) PM 02.12.14  
わがまま☆フェアリーミルモでポン!~黄金マラカスの伝説~(発売元:コナミ) GBA 02.12.19  
ポケモンピンボール ルビー&サファイア(発売元:ポケモン) GBA 03.08.01  
キングダムハーツ チェインオブメモリーズ(発売元:スクウェア エニックス) GBA 04


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スキップ
[Skip Ltd.]


 1997年に発売された話題作、プレイステーション用『moon』を制作した有限会社ラブデリックが前身。この会社はスクウェアやコナミを退社したメンバーが中心で、元スクウェアでは、西健一氏や江藤桂大氏、倉島一幸氏といった人物がいる。
 ラブデリックは、プレイステーション用ソフト『UFO』(1999年6月24日発売)、坂本龍一氏が音楽を担当したドリームキャスト用ソフト『Lack of Love』(2000年11月2日)を制作。その後『エンドネシア』などを開発する有限会社バンプールと、西健一氏や江藤桂大氏らの有限会社スキップなどに分裂した。
 現在スキップは、江藤桂大氏率いる開発1部、西健一氏率いる開発24部という2つの開発部からなる。開発1部はゲームキューブ用ソフト『ちびロボ!』を、開発24部は任天堂のプロデュースでゲームキューブ用ソフト『GIFTPIA』を開発している。

■会社情報
社名 有限会社スキップ
代表者 代表取締役 鈴木浩司
設立年月日  
所在地 東京都渋谷区
資本金  
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種 GC,PS2
ホームページ http://www.skiptokyo.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
チュウリップ(発売元:ビクターインタラクティブソフトウエア) PS2 02.10.03  
GIFTPIA(発売元:任天堂) GC 03.04.25  
ちびロボ!(発売元:バンダイ) GC 03  


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ダイス
[Dice Co.,Ltd]


 HAL研究所と良好な関係を持つソフトハウス。
 デザイナーとして活躍していた齋藤明宏氏と、齋藤氏からゲーム開発会社を起業したいと相談を受けた小關昭彦氏によって、1991年設立された。2人はダイスの共同代表に就任、経営面を小關氏が、ゲーム開発を齋藤氏が担当している。
 HAL研究所とは、『ロロの大冒険』や『SimCity2000』を共同で開発。その後もHAL研の自社開発タイトル『糸井重里のバス釣りNo.1』『シムシティー64』の開発に参加している。
 現在は、モバイル関連のソフトを開発しているようだ。

■会社情報
社名 株式会社ダイス
代表者 代表取締役社長 小關昭彦
代表取締役    齋藤明宏
設立年月日 1991年5月21日
所在地 東京都渋谷区
資本金 1500万円
売上高  
経常利益  
従業員数 16名
開発対応機種  
ホームページ http://www.dice.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
魔神転生(アトラス) SFC 94.01.28  
ロロの大冒険(イマジニア) GB 94.03.25  
SimCity2000(イマジニア) SFC 95.05.28  
G?O?D(イマジニア) SFC 96.12.20  
糸井重里のバス釣りNo.1 SFC 97.02.21 23万本
シムシティー64 64DD 00.02  
糸井重里のバス釣りNo.1決定版! N64 00.03.31

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トレジャー
[TREASURE Co.,Ltd]



 コナミで『コントラ』などを手がけたメンバーが独立して設立された。
 メガドライブ向けに『ガンスターヒーローズ』や『幽遊白書 魔強統一戦』を開発。高難易度で、練りこまれたゲーム性は、マニアを中心に非常に評価が高い。しかし、セールスにはなかなか結び付かず、どうやって経営をやりくりしているのかという余計なお世話的な外野の声もあるようだ。
 セガ系と目されていたが、ESP設立後は、NINTENDO64やプレイステーション用ソフトの開発を開始。
 ゲームキューブ用には任天堂開発第一部と共同で『ワリオワールド』を開発しているようだ。

■会社情報
社名 株式会社トレジャー
代表者 代表取締役社長 前川正人
設立年月日 1992年6月19日
所在地 東京都中野区
資本金 3000万円
売上高  
経常利益  
従業員数 32名
開発対応機種 AC,GC,GBA,PS2
ホームページ http://www.treasure-inc.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ゆけゆけ!トラブルメーカーズ(発売元:エニックス) N64 97.06.26  
爆裂無敵バンガイオー(発売元:ESP) N64 99.09.03  
罪と罰~地球の継承者~(発売元:任天堂) N64 00.11.21  
ひっぱリンダ PS2 01.12.06  
斑鳩 IKARUGA(発売元:ESP) DC 02.09.05  
斑鳩 IKARUGA(発売元:アタリ) GC 03.01.16  
ドラゴンドライブディマスターズショット GC 03.08.08  
ワリオワールド(仮) GC 03


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ノイズ
[NOISE INC.]


 『カスタムロボ』シリーズを開発しているソフトハウス。
 1996年、ナムコでアーケードゲームを手がけた見城こうじ(本名:鈴木宏治)氏らによって設立された。すぐにマリーガル?マネジメントと接触し、契約クリエイターチームとなる。開発は遅れたが、プロデューサーの石原恒和氏の的確なアドバイスもあり、1999年NINTENDO64用ソフト『カスタムロボ』をリリース。30万本を越えるヒット作に。以降、『カスタムロボ』シリーズを2作開発した。
 『ポケモンチャンネル』にはグラフィックデザイン制作に参加。
 現在は『カスタムロボ』のゲームキューブ版最新作を開発中。


■会社情報
社名 株式会社ノイズ
代表者 代表取締役 鈴木宏治
設立年月日 1996年9月2日
所在地 神奈川県川崎市
資本金 1000万円
売上高  
経常利益  
従業員数 9名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.noise-games.com/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
カスタムロボ N64 99.12.08  
カスタムロボV2 N64 00.11.10  
カスタムロボGX GBA 02.07.26  
ポケモンチャンネル ピカチュウといっしょ GC 03.07.18  
カスタムロボFOR GAMECUBE GC

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HAL研究所
[HAL Laboratory,Inc.]


 任天堂のセカンドパーティ。
 社名の由来は、映画『2001年宇宙の旅』から。
 ポリシーは「商品作りを通じて、作り手と使い手が共にハッピーになる」 ソフトのクオリティを重視し「開発スタッフが納得のいくまで作り込み、きちんと完成するまで商品として出さない」という。
 ゲーム開発以外にも、開発ツールやハード周辺機器の開発も行っている。業界では「技術のハル研」として有名らしい。


 1980年、池袋西武百貨店のパソコンショップの店長が、店に通うコンピュータ好きの若者数名に会社を作るから手伝ってくれと誘い、設立したといわれる。その若者の中には、谷村正仁現HAL研社長(当時大学3回生)や、岩田聡現任天堂社長(東工大2回生)も含まれていた。若く優秀な頭脳が集まったHAL研は、パソコンソフトや周辺機器を次々と開発し、成長した。
 1984年には任天堂の出資を受け入れ、ファミコン初期の頃から任天堂発売のゲームを共同開発してきた。87年頃から自社開発のソフトを手がけるようになり、『ガルフォース』『エッガーランド』『ピンボール66匹のワニ大行進』などのソフトを産み出す。
 1992年6月22日、HAL研は約50億円の負債を抱え、和議申請した。つまずきの要因は、1991年4月山梨に建設した開発センターだった。建設費用はほとんどが金融機関からの借り入れ。それに加え、ゲームソフトの売上が伸びず、資金繰りが急速に悪化した。
 HAL研の和議申請を受け、任天堂は支援を表明。山内任天堂社長は「開発部隊に優秀な人材が揃っていて、面白いソフトを作り上げる能力に長けている」とHAL研を高く評価、任天堂が開発資金をあらかじめ供与、販売面でも協力することになった。HAL研の社長には岩田氏が就任し再建の道を歩むことになる。
 岩田氏は真っ先に徹底して成果主義に人事制度を改めた。3月は経営陣によるクリエイターの考査期間で、クリエイターの潜在的な能力まで見抜き、年棒のほか配属の参考にしている。
 その後HAL研は、『星のカービィ』シリーズが大ヒット、『MOTHER2~ギーグの逆襲』の開発に参加するなど、任天堂のセカンドパーティとして、欠かすことのできない存在となった。
 1999年、HAL研は和議の手続きを終了。岩田氏は社長を退任し、後任には、HAL研の設立メンバーのひとりである谷村正仁氏が就任した。
 東京開発センターには、『ポケモンスナップ』を開発したジャック&ビーンズチームが所属。山梨開発センターにはソフト開発チームだけでなく、ツール開発も行っている。NINTENDO64やゲームキューブの開発ツールを他社へ提供。また、カードeリーダーの開発を行ったのもHAL研である。

■会社情報
社名 株式会社ハル研究所
代表者 代表取締役 谷村正仁
設立年月日 1980年2月21日
所在地 本社:東京都千代田区
東京開発センター:東京都中央区
山梨開発センター:山梨県竜王町
資本金 2億4,050万円
売上高 18億円900万円(2001年3月期)
経常利益 7億8400万円(2001年3月期)
従業員数 89名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.hallab.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ガルフォース FCD 86.11.19  
エッガーランド FCD 87.01.29  
ミリピード 巨大昆虫の逆襲 FC 87.10.01  
ジャウスト FC 87.10.30  
ジャンボ尾崎のホールインワンプロフェッショナル FC 88.02.01  
上海 GB 89.07.28  
ピンボール 66匹のワニ大行進 GB 89.10.18  
メタルスレイダーグローリー FC 91.08.30  
星のカービィ GB 92.04.27 171万本
星のカービィ 夢の泉の物語 FC 93.03.23 80万本
カービィのピンボール GB 93.11.27 112万本
MOTHER2 ギーグの逆襲 SFC 94.08.27  
カービィボウル SFC 94.09.21  
星のカービィ2 GB 95.03.21 149万本
星のカービィスーパーデラックス SFC 96.03.21 110万本
カービィのきらきらきっず GB 97.01.25  
糸井重里のバス釣りNo.1 SFC 97.02.21  
カービィのきらきらきっず SFC 98.02.01  
星のカービィ3 SFC 98.03.27  
ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ N64 99.01.21 196万本
ポケモンスナップ N64 99.03.21  
シムシティー64 64DD 00.02  
星のカービィ64 N64 00.03.24 106万本
糸井重里のバス釣りNo.1決定版! N64 00.03.31  
MOTHER3 豚王の最期 N64 開発中止  
大乱闘スマッシュブラザーズDX GC 01.11.21 100万本
星のカービィ 夢の泉デラックス GBA 02.10.25  
カービィのエアライド GC 03.07.11  
ルナブレイズ GBA 03


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ブラウニーブラウン
[Brownie Brown Co.,Ltd.]


 スクウェアで『聖剣伝説Legend of Mana』を制作したメンバーが中心となって設立した新会社。
 任天堂が100%出資の連結対象子会社。
 『聖剣伝説Legend of Mana』の開発メンバーが離反したのは、ファイナルファンタジーやネットワークゲームに注力するというスクウェアの姿勢に反発したため、と思われる。
 社名の由来は、「BROWNIEはブラウニーという働き者の妖精から。BROWNはその妖精の名前。 語呂がいいから」とホームページに記載されている。


■会社情報
社名 株式会社ブラウニーブラウン
代表者 亀岡慎一
設立年月日 2000年6月30日
所在地 東京都武蔵野市
資本金 2億円
売上高  
経常利益  
従業員数 12名
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.br2.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
マジカルバケーション GBA 01.12.07  
新約聖剣伝説 GBA 03.08.29


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フラグシップ
[FLAGSHIP]


 カプコンの子会社で、1997年4月に岡本吉起氏や脚本家の杉村升氏など4人を中心に、任天堂やセガなど数社の出資を受け設立。
 ゲームのシナリオ作りを担当する、ゲーム業界で唯一の企業。岡本氏はゲームシナリオの稚拙さを以前から感じ、このようなシナリオ専門の企業を作ろうと発案したらしい。


■会社情報
社名 株式会社フラグシップ
代表者 代表取締役 岡本吉起
設立年月日 1997年4月
所在地  
資本金 7000万円
売上高  
経常利益  
従業員数 7名
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
バイオハザード2 PS 98.01.28 203万本
バイオハザード CODE:Veronica DC 00.02.03 40万本
エルドラドゲート1巻~7巻 DC 00.10.10  
鬼武者 PS2 01.01.25 110万本
ゼルダの伝説ふしぎの木の実 GBC 01.02.27  
DINO CRISIS 2 DC 00.09.06  
DINO CRISIS 2 PS 00.09.13  
バウンティハンターサラ~ホーリーマウンテンの帝王 PS/DC 01.05.24  
Devil May Cry PS2 01.08.23 65万本
biohazard 0 GC 02.11.21 40万本
クロックタワー3 PS2 02.12.12  
biohazard 4 GC


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ポケモン
[The Pokemon Company]


 ポケモン関連ビジネスの総合マネジメント企業。任天堂の出資比率は31.0%で、持分法適用関連会社。
 株式会社ポケモンは「株ポケ」もしくは「TPC」と略して称されることが多い。
 1998年4月、任天堂、クリーチャーズ、ゲームフリークの3社の共同出資により設立されたポケモンセンター株式会社が前身。当時の資本金は6000万円。設立当初は東京と大阪のポケモンセンターの運営会社だった。
 2000年10月、商号変更し社名を株式会社ポケモンに変え、業容を拡大。任天堂 クリーチャーズ?ゲームフリークといった原著作権者の原著作権を含むポケモン関連の権利一切を統合。世界中のポケモン関連のロイヤリティ収入が全て株式会社ポケモンに集約されることになった。ポケモンセンターなどでのポケモン関連商品の販売、ライセンス管理事業、アニメ?映画事業、ゲームソフト?カードゲームの開発 発売など、ポケモン関連のほとんどの業務を一手に引き受ける、いわばポケモンの総合マネジメント企業である。
 ポケモン関連商品で得られる収入の内、ゲームに関しては任天堂?クリーチャーズ?ゲームフリークの原著作権者3社に利益が入る。アニメについては、3社に加え小学館プロダクション?テレビ東京 ジェイアール東日本企画の3社が加わり、アニメから派生する関連商品の商品化権使用料の配分は6社に配分されることになる。ポケモンの権利関係は複雑で、詳細は「ポケモンストーリー」(畠山けんじ?久保雅一著)を読むといい。
 社長には、クリーチャーズの社長職にあった石原恒和氏が就任。任天堂からは取締役販売統括担当として川口孝司氏が出向している。
 現在ポケモンセンターは2003年11月開設の「ポケモンセンターフクオカ」を含め、東京?大阪?名古屋?福岡の全国四ヶ所に展開。2001年3月には、インターネット上に「ポケモンセンターオンライン」を開設している。

リンク ポケモンセンターオンライン

■会社情報
商号 株式会社ポケモン
代表者 代表取締役社長 石原恒和
設立年月日 1998年4月23日
所在地 東京都中央区
資本金 3億6540万円
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ http://www.pokemon.co.jp/

■主な発売タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ポケモンカードGB2 GR団参上! GBC 01.03.28  
ポケモンパーティミニ PM 01.12.14  
ポケモンピンボールミニ PM 01.12.14  
ポケモンアニメカード大作戦 PM 01.12.14  
ポケモンパズルコレクション PM 01.12.14  
ポケモンショックテトリス PM 02.03.21  
ポケモンパズルコレクション Vol.2 PM 02.04.26  
ポケモンレースミニ PM 02.07.19  
ピチューブラザーズミニ PM 02.08.09  
トゲピーのだいぼうけん PM 02.10.18  
ポケットモンスタールビー GBA 02.11.21 200万本
ポケットモンスターサファイア GBA 02.11.21 200万本
ポケモンそだてやさんミニ PM 02.12.14  
ポケモンボックス ルビー&サファイア GC 03.05.30  
ポケモンチャンネル ピカチュウといっしょ GC 03.07.18  
ポケモンピンボール ルビー&サファイア GBA 03.08.01  
ポケモンコロシアム GC 03.11.21

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招布(まねぎ)
[MONEGI,INC.]


 1998年、任天堂とハドソンの共同出資によって設立されたセカンドパーティ。
 資本金は1億5000万円。出資比率はハドソン60%、任天堂40%。
 サードパーティ向けにNINTENDO64の開発ツールを供給し、開発をサポート。バンプレストやタイトーなどサードパーティのN64への参入を促した。そして、キャメロットを任天堂陣営に引き入れたことは、招布最大の功績といって過言ではないだろう。キャメロットは『マリオゴルフ』『マリオテニス』といったヒット作を開発。キャメロットの参入の貢献度を考えると、同じような目的で設立されたマリーガル?マネジメントよりもむしろ貢献度は高い。
 また、社内に開発チームを持ち、『電車でGO!64』などを開発した。
 しかし、任天堂のプラットホームがゲームキューブに移り、招布の役目は達成?終了し、休眠状態に陥っていたことから、解散することが決定。2002年9月末日時点で清算手続き完了済み。

■会社情報
社名 招布株式会社
代表者 小山俊典
設立年月日 1998年5月
所在地 東京都中央区
資本金 1億5000万円

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
PDウルトラマンバトルコレクション(発売元:バンダイ) N64 99.07.16  
電車でGO!64(発売元:タイトー) N64 99.07.30  
スーパーロボット対戦64(発売元:バンプレスト) N64 99.10.29

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マリーガル マネジメント
[Marigul Management,Inc.]


 任天堂とリクルートが共同出資して設立。資本金は3億円で、出資比率はリクルート60%、任天堂40%。
 社名の「マリーガル」は、マリオとシーガルを合わせた造語。 ゲームソフトを開発していくクリエイターとエージェント契約を結び、投資家からの資金調達、制作管理、メーカーとの条件交渉、広告宣伝など総合的なプロデュース マネジメント業務を請け負う会社。小さなソフトハウスでも、契約クリエイターとなれば、プロジェクトを立ち上げ、ソフトを作り、ソフトメーカーに販売してもらうことができる。
 当初は第一ファンドとして、アンブレラやノイズなど6法人とエージェント契約を結んでスタートした。 一方、マリーガルの対にあたる組織として、シーリオスタジオという組織がある。シーリオスタジオはゲームの企画、プロデュースを行う組織。『サクラ大戦GB』などに関わっていたようだ。
 2000年10月、マリーガルの活動を取り仕切っていた香山哲氏が、セガに招聘されマリーガルを退社。マリーガルの活動は徐々に小さいものになっていった。2001年10月には、子会社猿楽庁をエンターブレインに売却。2002年に実質の業務停止。そして2003年5月マリーガルは解散、終焉の時を迎えた。


■会社情報
社名 株式会社マリーガル マネジメント
代表者 代表取締役社長 坂本健
設立年月日 1996年7月
所在地 東京都渋谷区
資本金 3億円
売上高  
経常利益  
従業員数  
開発対応機種  
ホームページ  

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ピカチュウげんきでちゅう N64 98.12.12  
カスタムロボ N64 99.12.08  
巨人のドシン1 64DD 99.12  
カスタムロボV2 N64 00.11.10  
モンスタータクティクス GB 00.11.21  
エコーデルタ N64 発売中止  
DT DD版 64DD 発売中止  
DT Lords of Genomes GB 01.05.25  
動物番長 GC 02.02.21


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モノリスソフト
[MONOLITH SOFTWARE INC.]


 1999年10月設立。スクウェアで『ゼノギアス』を開発した高橋哲哉氏や杉浦博英氏が中心となり、ナムコの出資を受け設立された開発会社。ナムコが開発子会社を設立したのは初めてのこと。社長には杉浦氏が、副社長には高橋氏が就任した。
 『ゼノギアス』の開発陣がスクウェアから離脱した原因について、週刊webspaに掲載されているインタビューで杉浦氏は「(前略)…今度は『FF』しか作らない、という極端な方向に振れてしまった。でも、ある程度クリエイターとして自立していた人間もいますから、もう、まとめきれないですよね。監督をやっていた人間に「もう一度『FF』のスタッフとしてがんばってね」というようなもんですから」と述べている。
 第一作目の『ゼノサーガ エピソードI [力への意志]』は2002年2月に国内発売され、全世界では100万本を売り上げる大ヒットとなった。
 2002年4月の任天堂 ナムコの業務提携発表において、モノリスソフトが開発しているゲームキューブ向けの新作RPGの存在が明らかになった。
 2003年7月21日に開催した「モノリスソフト新作発表会 EPISODE2003」では、ゲームキューブ用新作RPG『バテン カイトス 終わらない翼と失われた海』とPS2用『ゼノサーガ エピソードI リローディッド』『ゼノサーガ エピソードII』の3タイトルを発表した。『バテン カイトス』の開発はグラフィックをモノリスソフトが、システム プログラムをトライクレッシェンドが担当。シナリオライターにはフリーとなった加藤正人氏、コンポーザーには桜庭統氏を迎えるなど外部との豪華なコラボレーションが特徴。ゲームキューブ専用ディスク2枚組で、まさにモノリスソフト渾身のRPGといえるだろう。『ゼノサーガ エピソードII』は前作で監督を務めた高橋氏が監修という立場で開発に携わることになり、重要ポストには若手を起用。また前作で音楽を担当した光田康典氏に代わり梶浦由紀氏が担当するなど、開発チームはフレッシュな顔触れとなった。この発表会で杉浦氏は「最近多くなってきた続編信仰による新規タイトルの減少、またシリーズ物の同一スタッフによるによるマンネリ化を打破し、技術、発想の融合を目指す」と発言、今回発表の新作について自信をみせた。

■会社情報
社名 株式会社モノリスソフト
代表者 代表取締役社長 杉浦博英
設立年月日 1999年10月1日
所在地 東京都大田区
資本金 7500万円
年商 12億4000万円
従業員数 76名(2002年2月末現在)
開発対応機種 GC,PS2
ホームページ http://www.monolithsoft.co.jp/

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
ゼノサーガ エピソードI [力への意志] PS2 02.02.28 45万本
ゼノサーガ エピソードI リローディッド [力への意志] PS2 03.11.20  
バテン カイトス 終わらない翼と失われた海 GC 03.12.05  
ゼノサーガ エピソードII [善悪の彼岸] PS2



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モバイル21
[Mobile21 Co.,Ltd.]


 任天堂とコナミの共同出資で設立された開発会社。資本金は2億円で比率は任天堂50%、コナミ50%。
 社長は元コナミTYO取締役で、『幻想水滸伝II』『ヴァンダルハーツII』のプロデュースを担当した米岡正紀氏。
 社名の通り、モバイルシステムGB向けのソフト開発を主にしてきたが、モバイルシステム事業は2002年内で打ち切られる。2001年は意欲的で斬新なソフトも見受けられたが、外注で開発を行うことが多く、『グラディウスジェネレーション』が発売された頃には、“KCEモバイル”と揶揄されていた。
 2002年モバイルシステム終了に伴い、清算された。 

■会社情報
社名 モバイルニジュウイチ株式会社
代表者 代表取締役社長 米岡正紀
設立年月日 1999年10月7日
所在地 東京都台東区
資本金 2億円
開発対応機種 GBA
ホームページ http://www.mobile21.co.jp/
※これは設立時のデータです。

■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
モンスターガーディアンズ(発売元:コナミ) GBA 01.03.21  
耽美夢想マイネリーベ(発売元:コナミ) GBA 01.04.26  
ドラえもん緑の惑星ドキドキ大救出!(発売元:エポック社) GBA 01.04.27  
ネットでゲットミニゲーム@100(発売元:コナミ) GBC 01.07.12  
EX モノポリー(発売元:タカラ) GBA 01.07.13  
モバイルプロ野球監督の采配(発売元:コナミ) GBA 01.07.26  
ジュラシックパークIIIアドバンスドアクション(発売元:コナミ) GBA 01.08.30  
億万長者ゲームのっとり大作戦!(発売元:タカラ) GBA 01.11.30  
グラディウスジェネレーション(発売元:コナミ) GBA 02.01.17  
メールでキュート(発売元:コナミ) GBA 02.02.14  
コロコロパズル ハッピィパネッチュ!(発売元:任天堂) GBA 02.03.08  

なかったことにしよう…。


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ランドネットディディ
[RandnetDD Co.,Ltd.]


 任天堂とリクルートの共同出資で設立された。出資比率は任天堂50%、リクルート50%。
 64DDによる会員制のサービス、ランドネットの運営会社。1999年12月よりサービスはスタートしたが、会員数が1万人強と奮わず、2000年11月に翌年2月28日にサービスを終了すると発表した。その後運営会社ランドネットディディは清算された。

 以下はランドネットサービス終了時に掲載されていた開発者のコメント
 補助ディスク『チビッコチッコ』『巨人のド新聞』『ヘンポ畑』など他では絶対あり得ないプロジェクトを実現することができてとても楽しかったです。こんな機会はもう二度とないだろうなあ。様々な可能性があっただけに、「終了」はとても残念。最後にもうひとつふたつ何かヘンな事をやりたかったけれど、その思いは別のカタチで!(飯田和敏さん)
 世紀をまたにかけた大ハード64DD。私たちはこのソフトの開発に関われたことを誇りに思っています。(ポリゴンスタジオ開発者)
 ゲームのカタチは色々あるけどDDでしか遊べないゲーム…。誰も遊んだことのないようなゲームをこれからも創りたい。(タレントスタジオ開発者)
 作品はメールの交換よりも送る側が大変なものだけど、多くの作品が応募されて本当に嬉しかった。皆さん、これからも「作る」楽しみを大切にしてくださいね。(コミュニケーションキット開発者)
 全国の64DDのユーザーのみなさんと、このハードでしか出来ない遊びの楽しさを共感できて本当に嬉しかったです。(ペイントスタジオ開発者)
 たくさんの作品をありがとう! またゲームキューブやGBアドバンスのアーティストシリーズで、お会いできる…かも。(ポリゴンスタジオ開発者)

■会社情報(既に清算済)
社名 株式会社ランドネットディディ
代表者 代表取締役社長 田中正則
設立年月日 1999年6月30日
所在地 東京都中央区
資本金 4億6000万円
従業員数 15名
開発対応機種  
ホームページ  


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ワープスター
[WARPSTAR Inc.]


 2001年、任天堂とHAL研究所の共同出資で設立。当初の出資比率は任天堂50%、HAL研50%だったが比率は変化しているようだ。。
 ゲームを除いたカービィに関する全ての展開と、版権の管理を行っている会社。カービィのアニメ制作とキャラクターマーチャンダイジングを担当。カービィアニメは北米と欧州で段階的に展開され(米国では既に放映中)、その核となるのがこのワープスターである。

■会社情報
社名 株式会社ワープスター
代表者  
設立年月日 2001年
所在地 東京都台東区



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