■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
スターウォーズ 出撃!ローグ中隊 N64 99.08.27
Star Wars Episode 1: Battle for Naboo N64 日本未発売
Star Wars: Rogue Squadron II(発売元:EAスクウェア) GC 02.03.22
=============================================
レフトフィールドプロダクション
[Left Field Productions,Inc.]
米国にある任天堂の元セカンドパーティ。
1998年4月、スポーツゲームの開発に定評があったLeft Field Productions社の株式の一部を任天堂が買収。任天堂のセカンドパーティとなる。 その後、NINTENDO64向けに『NBA Courtside』シリーズ、『エキサイトバイク64』を開発。
ゲームキューブ向けに『テンエイティ2』を任天堂のGiles Goddard氏と共に開発していたようだが、開発は中止されてしまった。
2002年、任天堂はLeft Field Productions社の保有株式25%をすべて売却した。売却は自社株を買い戻す形で行われた。
■会社情報
社名 Left Field Productions,Inc.
代表者 Mike Lamb, Jeff Godfrey and John Brandwood
設立年月日 1994年
所在地 米国
資本金 1,614,000US$
売上高
経常利益
従業員数
開発対応機種 GC,GBA
ホームページ http://www.left.com/
■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
NBA Courtside N64 国内未発売
NBA Courtside 2 N64 国内未発売
エキサイトバイク64 N64 00.6.21
NBAコートサイド2002 GC 02.3.29
=============================================
ニンテンドー?オブ?アメリカ
[Nintendo of America Inc.]
米国市場で任天堂の製品を販売している任天堂の100%子会社。任天堂の売上の5割以上を占める。
1.Donkey Kong
義父の山内溥任天堂社長の頼みを受けた荒川實氏によって1980年5月、Nintendo of Americaは設立された。最初のオフィスはニューヨークの玩具問屋街のビルの一室に構えた。夫婦ふたりだけのスタートだったが、数ヵ月後に日本から太田茂氏(後のNOE社長)らが出向、アメリカ人の従業員も数人雇った。最初に手がけた仕事は『レーダースコープ』というアーケードゲームをアメリカで販売することだった。ロケーションテストの結果、好感触を得て、京都の任天堂本社(NCL)に3000台もの『レーダースコープ』を大量発注。しかし、船便がニューヨークに着くまで4ヶ月もかかり、ようやく荷が届いた時には『レーダースコープ』の人気は泡の如く消え去ってしまい、パニック状態に陥った。荒川氏は価格を下げ必死の販売攻勢をかけたが、2000台以上も売れ残りが出た。そこで、NCLに新しいビデオゲームの開発を依頼する。開発を任されたのは当時ビデオゲーム開発経験の無い新人の宮本茂氏だった。
そうして宮本氏が手がけた新しいビデオゲーム『ドンキーコング』が完成しNOAに届けられた。アメリカ人の従業員は頭を抱えて、ある者はバーへ行き酒を飲んだくれ、またある者は次の職を探しに出て行った。アメリカ人の感覚には『ドンキーコング』というタイトルが奇妙に映ったばかりでなく、当時の主流だったシューティングゲームではなかったことが、評判の悪い原因だったようだ。荒川氏も売れるのか心配だったが、試しに近くのアーケードに『ドンキーコング』をテストとして設置してみた。すると、大当たりで一週間経ってもコイン収入が増えるばかりで、他にテストの場所を増やしても、結果は同じだった。これは凄い商品だということで、NOA社員が夜通し作業して、2000台全部のROMを『ドンキーコング』に入れ替えた。そうした作業をしているあるとき、NOAが借りている倉庫のオーナーが怒鳴り込んできた。ビデオゲームの主人公にそっくりな彼の名前はMario Segali。『ドンキーコング』の主人公はマリオで行こうと決まった。
『ドンキーコング』はさらにNCLに追加発注して、最終的には6万台を売り上げる大ヒットとなった。NOAは創立2年目にして1億ドルの売上を記録した。そのころNOAでは、会社をニューヨークからシアトルに移した。シアトルなら大阪から船で9日で着くし、不動産も入手しやすい。ハイテク企業が多く、質の高い労働力が得やすい。街の規模も約200万人と手頃であった。ドンキーコングの収益で、レドモンドの農地を27エーカー(後年さらに33エーカー)を買収した。1982年7月の出来事で、支払いは全てキャッシュであった。
1981年、海賊版の出現に頭を悩まされていたNOAは、『ドンキーコング』という名称を商標登録し、ゲームの著作権を法的に確立する必要があったため、弁護士が必要で、荒川氏はある友人からHoward Lincolnという弁護士を紹介された。荒川氏とLincoln氏は相談した結果、全米中に出回っていた『ドンキーコング』の不法コピーを駆逐するべく、FBIやアメリカ陸軍にも依頼して、海賊版の保有者、配給業者、製造者を摘発し裁判に訴えていった。その結果、任天堂は著作権を侵害する海賊版を糾弾し徹底的に追及する会社だという評価を勝ち取ったのである。
ところが、1982年4月のある日、MCAユニバーサルが『ドンキーコング』が映画『キングコング』の版権を侵害しているとして訴えてきた。10ヶ月にわたり裁判に備えて法務スタッフで準備を行った。裁判に備えて準備が進められている中で、Lincoln氏を仕事の上でも友人としても尊敬していた荒川氏は、NOAに入らないかと打診した。Lincoln氏は顧問弁護士としてではなく、あらゆる面でビジネスに関わりたいと答え、法務担当副社長としてNOA入社し、ナンバー2として荒川と一緒に社業を切り盛りするようになった。辣腕弁護士、John Kirby氏を招いて過去の訴訟を精査していると、MCAユニバーサルがキングコングの版権を所有しておらず、一般大衆の共有財産になっている事がわかった。裁判所の判決もMCAユニバーサルは著作権を所有しておらず、従って任天堂は同社の権利を侵害していないと結論した。この勝利によってNOAは逆に180万ドルの損害賠償金を得ることが出来た。
2.Nintendo Entertainment System
日本でファミリーコンピュータが大ブームとなっていた1985年、NOAはファミコンの米国展開を決意する。1985年1月に開かれたラスベガスのショーで、ファミコンを教育機器に改造し"AB-system"と名付けて出品したが、評判は芳しくなかった。アタリショックの後遺症が色濃く残っていたからだ。そこで山内氏のアドバイスで、横井軍平氏が開発したファミコンロボットをくっつけて、6月にシカゴで開かれたショーに出品したところ好評、ある程度の手応えを得て、その年の10月、ファミコンを"NES"と名付け、ニューヨークでテスト販売開始することになった。山内氏からは5000万ドルの予算をNOAに与えられた。
30人のアメリカ人従業員が、シアトルからニューヨークへの4ヶ月間という長期の単身赴任を引き受けた。デパートや玩具店?電気店をしらみつぶしに訪問して回った。リスクを一切背負わさないという条件をつけるしかなかった。小売店に製品を無料で持ち込み、ウィンドーディスプレイまで自社で行うと宣言した。 NOAの宣伝担当マネージャー、Gail Tilden氏はNESに関わる宣伝活動の基本原則を徹底させた。全ては任天堂のイメージがAtari社のそれとダブらないようにデザインされていた。最初の1年間で販売台数は100万台。テスト地域を広げ、2年目になると販売台数は300万台に伸びた。
1987年にNESのテスト販売が終了し、荒川氏は友人のPeter Main氏をマーケティング担当副社長のポストを用意して任天堂に入社させた。Main氏がまず手をつけたのは小売業界との関係改善だった。さらにウォール街にも接触して、主要なアナリストと交流し、任天堂を売り込んでいった。トップ?アナリスト達が任天堂に関心を寄せているというニュースは、これまでアメリカでも望んでも得られなかった信頼感を同社に付与した。
1988年にはNESが700万台、ゲームカートリッジが3300万本も売れた。1989年になるとアメリカの家庭4軒のうち1軒がファミコンを所有していた。1990年には全家庭の3分の1、3000万世帯を超えた。アタリショックの後遺症の残る米国でNESが成功した理由は、経営者としての荒川氏の理念によるところが大きい。山内氏の強力な支援もあって、長期的な視野に立った事業展開を可能にした。荒川氏とMain氏が指導した多角的なマーケティング戦略は綿密に計画され、一分の狂いも泣く実施された。北米市場でNESは最終的に3400万台売り切った。
そうしてNESの販売が増えるにつれ、NOAは消費者向けのサービスも開始するようになった。1986年1月から、一台6回線の電話を数台揃えてサービスを開始。直ぐにあまりの問い合わせの多さに対応できなくなり、1987年、4万ドルを投じて電子交換機を導入。1年も経たないうちに電話サービス係が500人に増え、300万ドルの新型電話システムで毎週15万本の電話に応答することになった。電話の能力には限界があるし800番サービスは経費がかさみすぎるので料金負担を打ち切り、1990年からはゲームカウンセラーへの電話は有料になった。子ども相手の電話は3分で切るように指示した。そして7分がすぎたら、優しく宥めて電話を切ることにした。ゲームカウンセラーはユーザーの様々な相談に応じることによって、ゲームファンとNOAの結びつきを深めることで、子どもたちは任天堂に対する愛着が増した。NOAも客の心をより深くつかむことができ、マーケットリサーチに役立てられた。
1988年初頭までに、任天堂のファンクラブの会員数は100万人を超え、荒川氏はファンクラブ向けのゲーム情報誌の発行を決断。編集長には、才能を買って、出産後間もないGail Tildenが任命された。1989年1月、彼女は日本の出版社と協力して編集と制作に当たり、ゲーム情報誌『NINTENDO POWER』の第一号を完成させ、500万人のファンクラブのメンバー全員に発送した。制作費の大半は購読料金(年間12冊で15ドル)でまかなうことができた。見本となった第一号を見て、150万人が15ドルの予定購読料を払い込んだ。パワー誌は発行初年度の終わりには、子供向けの雑誌としてアメリカ最大の発行部数を記録するに至った。やがて年間12冊では内部情報に対する飽くなき需要が満たせなくなり、季刊のニンテンドー?プレイヤーズガイドが追加発行されることになった。
■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
Steel Empire / Cyber Empires PC 92
Fantasy Empires PC 93.10
Dark Legions PC 94
Blood Omen: Legacy Of Kain PC,PS 96.10
エターナルダークネス~招かれた13人 GC 02.10.25
METAL GEAR SOLID THE TWIN SNAKES GC 03
Too Human GC
SRDゲーム事業部
[Game Development Division of Systems Research & Development Co.,Ltd]
任天堂ソフトのプログラム開発を行っている協力会社。SRDの本社は大阪市にあり、任天堂との資本関係もないが、ゲーム事業部(京都事業所)は任天堂本社屋内に所在している。事実上、任天堂専門のプログラム開発部隊といえよう。
ファミリーコンピュータの発売を翌年に控えた1982年、ソフト開発力の強化が任天堂の課題であった。また、当時はファミコン以外にもアーケードゲームやゲーム&ウォッチなどを手がけており、開発者が不足していた。そこで白羽の矢が立ったのがこのSRDであったようだ。以来、任天堂とは20年来のパートナーとして活躍することになる。
1984年以降は情報開発部付きのプログラムチームとして活躍。『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』など、任天堂の主要タイトルのプログラム開発に携わってきた。
■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日
F-ZERO FOR GAMEBOY ADVANCE(発売元:任天堂) GBA 01.03.21
EZ-TALK(発売元:キーネット) GBA 01.03.21
どこでも対局役満アドバンス(発売元:任天堂) GBA 01.10.26
ミニモニ。ミカのハッピーモーニングchatty(発売元:SMDE) GBA 02.04.01
プールエッジ(発売元:メディアカイト) GC 02.10.25
カードパーティ(発売元:メディアカイト) GBA 02.10.25
サイバードライブゾイド 機獣の戦士ヒュウ(発売元:トミー) GBA 03.07.18
Tube Slider GC
■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
マジカルチェイス(発売元:パルソフト) PCE 91.11.15
伝説のオウガバトル The March of The Black Queen SFC 93.03.12 40万本
タクティクスオウガ Let Us Cling Together SFC 95.10.06 45万本
オウガバトル64 Person of Lordly Caliber(発売元:任天堂) N64 99.07.14
タクティクスオウガ外伝 The Knight of Lodis(発売元:任天堂) GBA 01.06.21
1997年に発売された話題作、プレイステーション用『moon』を制作した有限会社ラブデリックが前身。この会社はスクウェアやコナミを退社したメンバーが中心で、元スクウェアでは、西健一氏や江藤桂大氏、倉島一幸氏といった人物がいる。
ラブデリックは、プレイステーション用ソフト『UFO』(1999年6月24日発売)、坂本龍一氏が音楽を担当したドリームキャスト用ソフト『Lack of Love』(2000年11月2日)を制作。その後『エンドネシア』などを開発する有限会社バンプールと、西健一氏や江藤桂大氏らの有限会社スキップなどに分裂した。
現在スキップは、江藤桂大氏率いる開発1部、西健一氏率いる開発24部という2つの開発部からなる。開発1部はゲームキューブ用ソフト『ちびロボ!』を、開発24部は任天堂のプロデュースでゲームキューブ用ソフト『GIFTPIA』を開発している。
スクウェアで『聖剣伝説Legend of Mana』を制作したメンバーが中心となって設立した新会社。
任天堂が100%出資の連結対象子会社。
『聖剣伝説Legend of Mana』の開発メンバーが離反したのは、ファイナルファンタジーやネットワークゲームに注力するというスクウェアの姿勢に反発したため、と思われる。
社名の由来は、「BROWNIEはブラウニーという働き者の妖精から。BROWNはその妖精の名前。 語呂がいいから」とホームページに記載されている。
■主な開発タイトル
タイトル 機種 発売日 出荷本数
モンスターガーディアンズ(発売元:コナミ) GBA 01.03.21
耽美夢想マイネリーベ(発売元:コナミ) GBA 01.04.26
ドラえもん緑の惑星ドキドキ大救出!(発売元:エポック社) GBA 01.04.27
ネットでゲットミニゲーム@100(発売元:コナミ) GBC 01.07.12
EX モノポリー(発売元:タカラ) GBA 01.07.13
モバイルプロ野球監督の采配(発売元:コナミ) GBA 01.07.26
ジュラシックパークIIIアドバンスドアクション(発売元:コナミ) GBA 01.08.30
億万長者ゲームのっとり大作戦!(発売元:タカラ) GBA 01.11.30
グラディウスジェネレーション(発売元:コナミ) GBA 02.01.17
メールでキュート(発売元:コナミ) GBA 02.02.14
コロコロパズル ハッピィパネッチュ!(発売元:任天堂) GBA 02.03.08